短歌時評

いま、いかに読むのか レトリックの「動機」と「効果」 / 澤村 斉美

2009年9月号

 川野里子は著書『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』において、葛原の歌の背景にキリスト教のモチーフがあることを積極的に読み込んでいる。その読みについての読者の反応はさまざまだ。例えば吉川宏志は、川野の読みには疑問を呈している。『葡萄木立』の「池水より小さき魚の飛びしさま薄き履きもの穿はきてわがみし」「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき」について、川野が「魚」にイエス・キリストの受難の物語を重ねて読んだことについて、吉川は「そのような一種の謎ときをしなければ、葛原の歌は読めないのだろうか」(『短歌新聞』八月号「歌壇時評」)と問う。吉川の読みは、「日常よく目にする事柄を描いている」として、「普通なら『水面の波が消えた』とでも書くような内容を、『たちまち水のおもて合はさりき』と表現する。葛原は、ほんの少しだけ言葉の意味をずらして歌を作る」「しかし、そのズレによって、世界の見え方が大きく揺さぶられるのだ。その揺れは読者を不安にさせる」というものだ。レトリックのもたらすものの見え方の変化とその面白さを読んでいる。

 それにしても、川野と吉川の読み方はすれ違っている。川野は葛原の歌について、「葛原は常に現実にそこにあるものから発想した」ということを何度も書いており、葛原の歌が「現実の風景」を詠んだものとして読めることを承知している。その上で一歩踏み込んだ読みを行っているのだ。つまり、葛原がなぜこのような不安を感じさせる詠い方をしているのか。その言葉が用いられる動機のようなものをさぐる試みを川野は行っている。吉川はそれを「一種の謎とき」と言ってしまうが、それほど軽いものではないだろう。この「動機」については、第七章「キリスト教という視野」において一定の答えが出されている。戦後の価値観が大きく崩壊・転換した状況において「世の中を一つの価値観や視野で見ることの困難」に直面した葛原は、もう一つの視野としてキリスト教を手に入れ、ものごとを複眼的に見ることでこの困難を克服しようとした、というのがそれにあたるだろう。

 その答えの妥当性は今後話し合われていくものとして、私が興味をもつのは、吉川と川野の読み方の違いだ。『幻想の重量』の意図が葛原作品を短歌史的に物語ることにあるのは明白だが、これは歌の読み方を模索する書でもあり、私はどうしても、現在、短歌をどのように読んだらいいのかということを考える。川野はあえて葛原のレトリックの動機に踏み込む。吉川はレトリックが成立した後の効果を読む。レトリックとその効果を共有できる読みの場があるならば、吉川の読み方で満足できるかもしれない。川野がそうしないで、レトリックの動機に踏み込むのは、そのような読みの場が現在かなりもろくなっていることを見過ごせず、読みの場を創造する必要性を切に感じているためではないだろうか。

 川野の前評論集『未知の言葉であるために』について、「価値観の乱立するアナーキーな状態を穂村弘の『わがまま』論のように肯定するでもなく、高島裕の『伝統』や『規範』への信奉のように否定するのでもなく、共通理解が可能となる「場」が見えてくるのを川野は我慢づよく待とうとする」と述べたのは大辻隆弘だ(『時の基底』より〇三年四月の時評「共通の場」、筆者要約)。「場」とは、歌を共有する読みの場であると私は捉えている。六年を経た今、「レトリックの動機」へ踏みこむことは、川野がひとまず出した答えだろう。さらには近年、川野に限らず歌人論集や近現代短歌を探求する評論集の刊行が続いているのも、「共通の場」を創造する試みといえるのかもしれない。

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