短歌時評

第一歌集 / 梶原 さい子

2013年8月号

 昨年は若手男性の第一歌集に関心が集まったが、この五月二十日前後には、嘱目される若手女性の第一歌集が相次いで刊行された。
 三年前に短歌研究新人賞を受賞した山崎聡子の『手のひらの花火』には、若さの持つ危うさが描かれていて、噛みしめながら読んだ。
  塩素剤くちに含んですぐに吐く。遊びなれてもすこし怖いね。
少し昔の自分たちを詠んだ歌と取れる。
 特に数年前から、「今」ではなく、とうに過ぎた児童期、思春期を詠う動きがあり、どう受け止めたらいいか戸惑っていた。それは、あえてその時代を今詠う本人の理由を、いまいち酌むことができないからだったが、この歌集のあとがきに、「短歌をつくることを知らなかった時代の名づけようのない記憶や感情を今なら短歌という形に感光させることができる」とあって、その理由の真っ当さに驚きつつ納得した。かたどっておきたい、それだけ、本人にとって大切な時代の大切な想いなのだ。しかし、私が、より注目したのは、
  「あそこはもう駄目なんでしょう」名も知らぬ島に咲くという赤い浜百合
という戦時中の女学生に成り代わっての一連だった。「成り代わり」には賛否両論あるが、ここでは、現実に女子学生だった自分が基盤として働き、女学生達と二重写しになり、虚構という言葉とも違う、何かをもっと引き受けた迫り方が感じられた。その迫力に、新たな可能性を見た。
 同じく三年前に角川短歌賞を受賞した大森静佳の『てのひらを燃やす』には、突き詰められた言葉がきらめいている。
  喉の深さを冬のふかさと思いつつうがいして吐く水かがやけり
  夕空が鳥をしずかに吸うように君の言葉をいま聞いている
 たとえるなら一日に一つの歌しか味わいたくないような確立された濃縮性があった。それぞれの歌には見出された真理があり、抑制もきき、みずみずしいのに老成している。
 また、花や鳥などの自然の風物の持つ力をよく知り、多く託すところがあるのにも感じ入った。
 三原由起子の『ふるさとは赤』は、ストレートに言葉が打ち出されてくる歌集だ。
  今日でもう結婚式のことだけを考えられなくなるのがさみしい
驚くほど素直すぎるところがいっそすがすがしいが、後半、東京電力福島第一発電所の事故後は、ぐっと歌が力を持ち始めている。
  ふるさとを失いつつあるわれが今歌わなければ誰が歌うのか
 三原は福島県浪江町出身。原発事故のその後を詠うとき、元々備えていた直截性が力を発揮して、ぐいぐい読ませる。
 昨年、現代短歌社から「第一歌集文庫」の刊行が始まり、第一歌集というものの魅力が改めて意識されているのを感じる。第一歌集とは、むしろ後になってその存在の意義がよく見えて来るものだ。出発点という意味においても、ここに挙げた三冊三様の打ち出され方がとても貴重だと思われた。
 一方、短歌人の寺島弘子の『しをりひも』が出版されている。八十歳を超えてからの第一歌集。清潔できっぱりしていて心に染みる。
  すすめらるる色つきレンズ断りぬ雪の白さは白さと見たし
 出発はそれぞれのタイミングであるものだ。むしろ、「初めて」の歌として差し出される言葉、それにいかに関わるこちら側であるか。先入観があれば排除し、しなやかで確かな自分の軸を持ち、ときめきながら、誠実に受け取っていけるか。第一歌集を開くとき、読む側も改めて何か試される思いがする。

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