短歌時評

漢字、カタカナ / 梶原 さい子

2013年6月号

 花の季節が来た。「短歌研究」四月号には、「花の名前――漢字、それともカタカナ、表記について考えること」という特集がある。
 
 これは、直接には、二〇一二年九月号の永田和宏と詩人の中村稔の対談を踏まえたものだ。そこでは、植物の表記について、永田が、「カタカナでも漢字でもいいが、どちらかに決めつけるのは詩を痩せさせることになる。何でもありで良くないか」と言い、中村が、(牧野富太郎の、中国と日本の植物が混同しないよう漢字でなくカタカナを使うという意見に賛同した上で)「字面のイメージよりも、どういう表記をしても詩が残ることを自分の覚悟としてやってきた」と言っている。これは、個人の意見ではある。が、同時に、現代詩と短歌の本質的な方向性が表れているところのようで、興味深く感じられた。少々粗い言い方で述べれば、型があるゆえになるべく広がる余地を残そうとする短歌と、言葉を重ねながらも、本質に肉薄するために削ぎ落としていく現代詩というところだ。
 
 特集に意見を寄せた十七人も、篠弘が、カタカナ語の濫用を止めようという他は、ほとんどが、表記は自由と回答している。しかし、その「自由」は、いわゆる手放しの自由とも違う。たとえば、奥村晃作、「一首の短歌のその場所で最も相応しい表記がただ一つあるわけで」。甲村秀雄、「その一首としてそうあるように表記されるべきだ」。久々湊盈子、「一首の雰囲気に合った表記を作者自身がその都度選べばいい」。つまり、限りなく自由だけれど、その表記は定まってくると言うような。
 
 では、その表記を決めるのは何かというと、それは、歌の中の他の言葉ということになる。花以外の部分が花の表記を決定するという、改めて思えば不思議なことがなされている。
 
 たとえば、「紫陽花」と書けば、「紫」や「陽」のイメージも複層的に働かせることができる。漢字の持つ表意性が機能する。が、「白い紫陽花」と表記すると、「紫」が効き過ぎ、何色なのか混乱する。だから、「アジサイ」「あじさい」「あぢさゐ」と置き換えることになる。(牧野の説では、「紫陽花」と「アジサイ」は別種なのだが、それはそれとして)もちろん、自分の中ですでに決めているこだわりの表記はあるかもしれないが、歌全体を見てはじめて確定されるところも大きいので、そのための余地を備えておきたいという意識が、表記は自由という主張からは感じられた。
 
 枕詞、掛詞、本歌取りなど、歌の修辞は基本的に、ごく限られた文字数の中で構築されなければならない歌世界を、「広げる」ために用いられてきた。その必要性は、歌を作る人の心に深くあるのではないか。そのような修辞が、ほぼ用いられなくなった今、表記の選びこそが、重要な技法として、戦術としてあることを、改めて意識してもいい。
 
 同時に、今は、また、歌世界を抑制する方向性も目立ち、表意性がごく少ない「音」としてのカタカナの多用は、そのための方法としてもある。そして、花の名前においては、その花との距離感の表顕というところも含めて、カタカナや漢字が選ばれていると感じる。ただし、漢字表記だから花と作者が近いなどとは一概には言えない。漢字のイメージだけを利用した使い方もある。自然詠が少なくなり、しかも、口語の歌にはほとんど見られない今、花の表記の仕方と、花との距離感や詠いぶりなどの関係は、興味深くあるところだ。
 
 「紫陽花」という見出しの向こうに、「あじさい」「あぢさゐ」「アジサイ」が透けている、揺れる辞書がある。意味と調べと視覚的なフォルム。これらの全体性が求められながら、もっともふさわしい咲き方がそこから選び取られていく。

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