八角堂便り

昭和の迎へ傘 / 栗木 京子

2013年7月号

八角堂便り       第五十五便

 今年三月に刊行された『帰去来の声』は島田修三(昭和二十五年生)の第七歌集。読みながら何かひとこと呟いてみたくなるような一冊である。料理屋の小上がりに作者を交じえた四、五人で集まって、歌を肴にあれこれ語り合ってみたくなるような、そんな歌集でもある。
  莫大小に『山鳩集』はルビふらず髭あたりつつ懐ふたまゆら
 「莫大小」を読めるかどうかで年代がわかる。かろうじて私は「メリヤス」と読めた。今はニットやジャージーなどとお洒落な呼び方をするので、莫大小はもはや死語と言えるだろう。上句で言及されている小池光歌集『山鳩集』の歌は、
  「莫大小」と読めまい読んで読めたとしそれがなんだかきみらは知らぬ
 という拘りの強い一首。若者に迎合しない小池の姿勢に島田はエールを送っているわけである。島田作品の下句で「髭を剃りつつ」でなく「髭あたりつつ」、「思ふしばらく」でなく「懐ふたまゆら」とこまやかに語を選んで表したところに惹かれる。言葉への愛があるのだ。
  ちよいと出て豆腐買ひにゆく店もなし心遊ばず春の日暮れを
  ザ・ピーナッツ伊藤姉妹の造作(ざうさく)の微差たのしみき昭和のテレビに
  割烹着も見えて昭和の迎へ傘かかる小景を呼びやまず歌は
 過ぎ去った昭和の日々への愛惜が折々に詠まれている。夕食用の豆腐と油揚を買いに行った小さな店先。目の横のほくろがあるか無いかでかろうじて見分けたザ・ピーナッツの二人。三首目の「迎へ傘」もなつかしい言葉である。都市近郊にサラリーマンが集中し、核家族化が進むとともに専業主婦も増えた。夫の退社時に合わせて割烹着のまま駅で待つ妻たちの姿は、昭和の日本経済や家族像の一断面を如実に象徴している。
  つばさもて子を抱けざれば巣落ち子のめぐりを飛びて五丁目の雀
  むらさきに芽吹かむとする裸樹を巡礼のごとし蟻群(ぎぐん)ぞのぼる
 身辺の小動物を詠んだいつくしみ深い歌も本歌集の魅力。戦闘機や軍艦への憧れ(に似た心情)を叙べた歌の合間に、五丁目の雀や裸樹の蟻群の歌が挿入されて、そのさりげなさが歌世界に奥行を生んでいる。二首ともよく目にする光景でありながら「つばさもて子を抱けざれば」「巡礼のごとし」といった非凡な表現によって、日常的な場面がにわかに鼓動をひびかせはじめるのを感じる。
  いやだから気が進まないからいやだから、なにやら気高し戦後の百鬼園
 本歌集には文学者をはじめとして人名が多く出てくる。ここで登場するのは芸術院会員への推薦を断わった折の百鬼園(内田百閒)である。駄々っ児のような弁明に百鬼園の気高さを感じ取っている島田。渋い味わいの歌である。

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