八角堂便り

撃ちてしやまん / 小林 信也

2021年7月号

 私がこんなタイトルで書くとざわつく向きもあろうかと思うが、安心してください、言葉の話です。
 戦中の標語として使われた、正しくは「撃ちてしやま」と綴るこの言葉は古事記の歌を出典としていて、「し」は強勢、「む」は意志であるから「撃って、やめる」つまり「最後には勝つぞ」という意味である。これを結句に据えた歌は多くあり、斎藤茂吉にも
  何なれや心おごれる老大の耄碌国(もうろくこく)を撃ちてしやまむ
という作品がある(気恥ずかしくなるほど下品な代物だが)。
 ところが、この言葉、軍歌・戦時歌謡の歌詞となるとなぜか「やまむ」でなく「やまぬ」になってしまう。「撃って終わる」のでなく「終わらない」。撃ち続けてしまうのだ。「む」も「ぬ」も発音では「ン」になることがあるので聴き間違いかとも思ったが、例えばよく知られた『空の神兵』四番では「撃ちてしやまぬ大和魂(やまとだま)」とあって、意図的に「ぬ」とされていることが意味の上からも明らかだ。これはなぜだろうか。「撃ち続ける」方が勇ましいと思われたのか。作詞者は何を考えていたのか。受け手の国民大衆は「やまむ」を「やまない」の意味だと思っていたのか。
 なぜ今そんな話をするのかというと二つ理由があって、一つは篠弘氏の大著『戦争と歌人たち』の刊行であり、もう一つは松村正直さん編のアンソロジー『戦争の歌』(コレクション日本歌人選)について昨年8月に行われたネットトークショーがYouTubeで視聴可能になったことによる。今から十七年前、松村さんや川本千栄さん、なみの亜子さん、秋場葉子さんと発行していた短歌評論同人誌『D・arts』の「短歌と戦争」特集で、私は日米開戦時の歌に触れ、知識人の「大東亜」称揚の歌や、軍人斎藤瀏の妙に深刻な歌などと比べて、一般人の歌に「戦争が終わる・・・のではないか」という期待が見えると書いた。そのテーマはその後深めるつもりもあったのだが、以後すっかり放置していたことを、それらの刺激によって思い出したのだ。
 戦時中の、いやそれ以前からの、戦争が国策の遂行手段の一つとして存在していた時代の民衆の心の動きを、気持ちを直に伝えうる短歌という形式を通して知りたいと思う。それも、高邁な非戦反戦の理念から批判するのでなく、平和を望みつつも、勝ち戦の知らせには喜んでしまう、「やまむ」が「やまぬ」になってしまう、意識の低い、単純な民衆の目線に、同じく意識低い系の凡人として寄り添いたいと考えているのである。
(上に書いた松村さんのトークショーのページ(野兎舎)からは資料もダウンロードできる。始めに引いた茂吉の歌もその資料に載っているものである。)

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