現代短歌が手放してしまつたかもしれないもの / 永田 淳
2021年5月号
先日、初めてオンラインでの歌集批評会に参加した。
俎上の歌集は秋月祐一歌集『この巻尺ぜんぶ伸ばしてみようよと深夜の路上に連れてかれてく』。当日話題になつたテーマの一つに「作中主体」が作者とイコールなのか、あるいは作者が仮構した想像の人物なのか、といつたことが
でも、ぼくは謝らないぞ乾電池入りの味噌汁ごくりと飲んで
富⼠⼭のみえる範囲で⽣きてきた⺟とふたりで回転寿司へ
のやうな歌を例に語られてゐた。特に秋月が自身の作品をフィクションだと「あとがき」で匂はせてゐたこともあつて、「作者=作中主体」なのか否なのか、といふ論点になつたのだが、私は少し違つた角度からこの話を聞いてゐた。
といふのも秋月は歌人であるが「船団」(今は解散)に拠つて俳句も作る、俳人でもあるのだ。
少し話題をずらす。
月刊誌「短歌」「俳句」(いづれも角川)の一月号は、新年号でもあり当代の一線の歌人、俳人を多く集めて巻頭から一挙に作品を掲載する。歌人は岡野弘彦から吉川宏志まで二十六名(雑誌の前半部分のみ「俳句」も同様)、「俳句」は深見けん二から小澤實まで二十三名。
それら特に俳句作品を読んでゐて、不思議な感覚に陥つた。大串章以外は、全員が「松本城天守六階初日差す」(小澤實)といつた正月の句を作つてゐた。自身の癌との闘病を切々と詠ふ正木ゆう子でさへ、律儀に鏡餅の句を作つてゐる。
翻つて「短歌」はどうかと言ふと春日真木子「高砂百合めでたく伸びてあらたまの年に向かへり ようこそ新年」他一首、秋葉四郎「コロナ禍超え東京五輪晴ればれと迎ふる新年一向(ひたぶる)に待つ」松平盟子「元日のいちにち長くまた短く大きな虚(うろ)のなかに母と居る」を見るのみで、計四首だけである。ほかの歌は落葉を歌つたり、コスモスが咲いてゐるのを見つけたり、学術会議をテーマにしてゐる。
歌人は作歌当時の季節感に合つた歌を作り、俳人は作句時には想像するしかない正月、年末年始を詠つてゐるのだ。
両誌の原稿依頼には「新春」の言葉が入つてゐた筈だし、歌人がその言葉を見逃して、俳人だけが目ざとくそこに反応したと言ふことでもないだらう。
俳句は目の前にモノや景色、情景がなくても作れる詩型なのかもしれない。古典和歌が訪れたことがなくても歌枕の地を歌へたのと同じやうに。
「風音に目覚めひとりの大旦」(西村和子)などは明らかに未来の自分を空想してゐるが、この手法は果たして短歌で有効だらうか、といつたことも考へる。
もしかして現代短歌は空想といふ自由を手放してしまつてゐるのかもしれない。