短歌時評

運用と手順⑮ / 吉田 恭大

2021年4号号

 みなさまいかがお過ごしですか。こちらはもうずっと無理です。都内では体調を崩すたびに感染を疑うような状況が続いていて、体調そのものよりも精神に悪い。
 
 BR賞の発表(「現代短歌」二〇二〇年一一月号)からこちら、歌集評について改めて考えさせられることが多かった。
 総合誌などの依頼では紙幅が限られることもあり、どうしてもある程度似たようなフォーマットで書かざるを得ない。また逆に、無理に自説を持ち込もうとして論の飛躍が目立ち、歌の読みから離れてしまうようなケースもある。詩歌に限らず、書評の上手い人というのは切り口とフォーマットの手数が多く、その都度最適な解説を展開できる人、というような印象がある。
 最近の歌集評ではユキノ進「『水中翼船炎上中』という冥界巡り」が力作で面白かった。「短歌研究」2月号・3月号に前後編に渡り掲載されたこの文章は、穂村弘の久々の歌集『水中翼船炎上中』に対して、がっぷり組み合った長大な作品評となっている。
 「これはノスタルジックな自分史の歌集ではない。あるいはそう読むべきではない、と考えたのがこの文章を書くきっかけだ。作者が隠しているものがある。作者の意図せざるものもきっと隠れている。それらを明るみに出し、歌集になって漂い始めた不思議な緊張感のもとを探りたい。」という切り口で、個人的に穂村の近作に名詞レベルで通底するノスタルジー、については注目していたトピックではあったが、歌集全体の特徴としてはどのように読めば良いのか判断しあぐねていたところがあったので、ユキノの評がとても良い補助線になった。
 評の展開としては、まず前編で連作ごとの名詞から時代考証を行い(例えば作中の「鉄腕アトム」や「ウルトラセブン」の放映時期、「マーガリン」「ネクター」といった食材の普及する背景など。資料に付された年表が力作だ)、この歌集が「大きな欠落を抱えた青春不在の歌集であることを明らかにするためであり、個人的な追想による半世紀としてはあまりにいびつで不自然である」ことを指摘する。
 そしてさらに連作と「時間を超えて現れる言葉」、富士山、日の丸、蝉、蟻、などの共通項を見出し、歌集の構造を「ノスタルジックな回想録ではない、死んでしまった者に再び出会うための奇怪な旅の記録」「冥界巡りの物語」と喝破する。
 後半はさらに論が進み、作中に仮定された主人公の裏写しとして天皇を見出す展開など大変スリリングなのだが、要約するとこの頁も前後編になってしまうので中断します。ぜひ「短歌研究」の本誌をお読みください。
 このテキストの魅力は、①作者の半生記、という読み筋をいったん否定することで歌集の中に(フィクションとしての)疑似的な年譜を立ち上げ、②それを元に作中の偽史に登場するキーワードと出来事を繋ぎ合わせて、③われわれの時間の、対応する正史の年譜に打ち返す、という力業をやり遂げているところである。語弊のある言い回しになるが、大塚英志の歴史モノを追っているような展開の面白さがあった。
 もちろんこれは『水中翼船炎上中』という特異な歌集が前提となる話であるが。歌集の読書体験をさらに豊かなものに深めてくれるのはよい歌集評の要件の一つと言えよう。
 短くて早く読める短歌に対してどれだけ時間をかけて読み込めるか。それこそ『時間のかかる読書』ではないけれど、そのような贅沢な語りで人の作品を読むテキストがもっとあってもいいのではないだろうか。別にそれは「歌集評」の形を取らなくてもいいし、あるいはもっと評者側に寄せたようなものでもいいのかもしれない。

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