百葉箱2021年3月号 / 吉川 宏志
2021年3月号
間に合はず触れる額に汗のあり二十分早く着きたかつた噫
上大迫チエ
夫の死を詠む。汗がまだ残っていて、漏らした「噫(ああ)」が痛切である。
六万羽の額板(がくばん)白きオオバンが琵琶のみずうみ動かしている
澤端節子
六万の鳥の額の白い部分の動きに迫力がある。まさに湖自体を揺るがしている感がある。
あしもとはおぼろげながら虹は立つ東京湾を押し拡げつつ
徳重龍弥
虹が東京湾を押し拡げている、という逆転的な発想がおもしろく、虹の大きさが伝わる。
店長が拾いしメモにホウレン草ハタハタ母の最後の肉筆
山﨑大樹
買い物中に母は倒れ、亡くなったらしい。買い物メモの「ハタハタ」が印象的で、哀しい。
船ばたに光が揺れる「あれは何?」遠い日母にたずねた光
乙部真実
こんな記憶は誰にもあるのではないか。懐かしく、美しい一首。「船ばた」という景もいい。
「パンプキン」が原爆投下の訓練に使はれたとも知らずハロウィン
澤井潤子
原爆投下前に、実験的に落とされたパンプキン爆弾。意外なところから、歴史の暗部に繋げており、注目した一首である。
この川の大きうねりに雪は降り雪は抱かれてまた水となる
谷口公一
やわらかに言葉を連ねており、そのリズムから、雪を呑み込む川の大きさが感じられる。
『現代』で待つ母からの「今どこ?」に「『鎌倉』」と打つ展示室3
真間梅子
博物館で母とはぐれた場面。括弧がややうるさいが、機知が楽しい一首である。
生まれたくなかったという夢を持つために僕らは生まれてきたんだ
姉川 司
生まれたくなかった、と思うのも、生きているから。逆説的に生を肯定するしかない苦渋。
ぺしゃんこのねずみをねずみと確かめてふつうの道のつづきを歩く
椛沢知世
小動物の死を見たことで、今までの道が別のものに見えてしまう。下の句に奥行きがある。
オスプレイ配備通報への拒否権は持たぬらし持たむとせざりしか日本
松井 滿
アメリカに抵抗しない国に対する無念さが、棒のような文体から滲む。こうした歌も重要だ。
いちにちで洗濯物が乾かなくなった日として今日からは冬
吉原 真
季節の変化を繊細に捉えている。三・四句がつながるリズムも、この歌では効果的。
Solitudeあなたによく似た灯台に手を振る、なるべく乱暴に振る
帷子つらね
「振る」を繰り返すリズムや「なるべく乱暴に」などの言葉に勢いがあり、華のある歌。
踏切で期末考査の生徒らの見てしまひたる真昼の轢死
戸田明美
試験期間でなければ、轢死を見なかったはず。運命を思い、巻き込まれた生徒を思いやる一首。
なんとなく最澄が好き温泉はたぶんあんまり見付けてないが
有櫛由之
温泉を見つけた伝説が多い弘法大師との対比。軽い口調がおもしろい。
われわれの中のハーケンクロイツが回転してゐる心臓の弁
横井来季
心臓の模式図は、鍵十字に少し似ている。そこから我々の内部にあるナチスを感じている。発想が独特で、考えさせられる歌。