青蟬通信

東日本大震災の歌 / 吉川 宏志

2021年3月号

 東日本大震災を詠んだ歌集が、この十年間に、幾冊も刊行された。今回は「塔」会員の歌集の中から、一首ずつ読んでいきたい。
  女なり男なりを超えたるかたち網に掛かりて帰りたまひき
                       梶原さい子『椿/リアス』2014 
 傷んで、男女の区別も分からなくなった遺体が、漁師の網に掛かって、浜に戻って来る。悲惨な状況を歌っているが、「帰りたまひき」に、神仏を迎えるような、不思議な響きがある。死と生が溶け合っている、海辺に住む人々の古代的な感覚が、奥底にあるようにも感じる。
  雷雲の巻きつく早池峰(はやちね)が赤し死体袋も北枕にせず
                             田中濯『氷』2014 
 作者は盛岡で被災した。遺体は北枕で安置される風習があるが、混乱の中で、向きなど考えられずに置かれていたのだろう。早池峰は『遠野物語』にもよく登場する山。風土自体が、人々の死に反応しているようで、自然に対する恐れが滲んでいる一首である。
  臭いがきつい 消防法上一つしか香炉が置けない遺体安置所
                       佐藤涼子『Midnight Sun』2016 
 現場でなければ詠めない歌が、確かにある。この歌はまさにそうで、一つだけある香炉の存在感が、記憶に強く残っている。初句切れのリアルな独語。そして、どんな非常事態でも、法律を守らねばならない苦しさと厳しさが、緊密な文体から伝わる。
  長靴の歩みの底にたまりくる汗ひきずりてヘドロを歩む
                           花山周子『林立』2018 
 岩手県大槌町に、ボランティアに行った折の歌。長靴の中にも溜まる汗。それを「ひきずりて」という表現から、泥に埋もれた被災地を歩き続ける身体感覚が、なまなましく蘇ってくる。
  首ほそき妊婦に抱かれ一家族一本限りの水ひかりおり
                   沼尻つた子『ウォータープルーフ』2016 
 震災時に、販売業に就いていた人の歌。さまざまな家族があるのに、一律に水は一本ずつと決めて売る心苦しさ。当たり前に存在していた水が、光のように見えた瞬間が、確かに捉えられている。前述の歌とは違い、被害を直接に詠んだものではないが、当時の不安な空気を思い出させる作品といえるだろう。
  死者の数を知りて死体を知らぬ日々ガラスの内で校正つづく
                          澤村斉美『galley』2013
 作者は新聞の校閲部に勤めており、震災の記事を制作する体験をした。被災者ではなくても、さまざまな形で、人は災害に関わるのであり、それぞれの立場に根ざして歌うことは、やはり重要なことではないか、と私は考えている。死者の数だけを書くしかない後ろめたさがあり、「ガラスの内で」という表現が、自分の存在の脆さを感じさせる。
  「話を聞いて」と姪を失ったおばあさんに泣きつかれ聞く 記事にはならない
                     近江 瞬『飛び散れ、水たち』2020 
 石巻市で新聞記者をしていた人の作。他者の悲しみを聞くことで、自分も負っていく傷がある。そして、同じような話がいくつもあるために、切り捨てるしかない罪悪感。どうしようもなくて、宙吊りになった自分の姿が、率直に歌われている。
  履歴書を書く 震災時知らぬ人にまぎれて床に寝た図書館で
                           田宮智美『にず』2020 
 図書館も避難所になっていたが、今では嘘のように、日常が戻ってきている。震災の夜を思い出すが、その体験を履歴書に書くことはない。「書く/震災時」という句割れのリズムが独特で、今も不安定な自分の存在感が、そこに現れているようだ。
  新しき道路の増えてナビを替ふ海へゆくほど道はあたらし
                        斎藤雅也『くれはどり』2020 
 津波で何もかも失われたところほど、新しく美しい道が造られるという皮肉な残酷さ。しかし、当時の海辺の凄惨な情景が、作者の眼には焼きついているのだろう。淡々としているが、痕跡を消してゆくことへの疑いが籠もっている一首である。
 他にも取り上げるべき歌集はあったと思うが、紙幅が尽きた。

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