八角堂便り

くれなゐのちしほの / 山下 洋

2021年3月号

 もう何年も前からになるが、大晦日には思い出す一首がある。『金槐集』の、
  ちぶさ吸ふまだいとけなきみどりごとともに泣きぬる年の暮かな
である。泣きじゃくる赤子と一緒に泣く姿。この青年歌人にそう歌わせた状況は、いったい何だったのだろう。まるで、八百年後の世界を予感していたかのようにも思えてくるのだ。とまれ、例年なら騒がしくなっている家の中、誰も帰ってこないので静かな二〇二〇年の歳晩だった。
 明けて元旦。子らや孫らと、今年はオンラインで短時間の新年交礼会。そののち、正月なので、ということで昼間から一杯いただく。大酒ではないが、口ずさむのは井伏鱒二訳「田家春望」。〈ウチヲデテミリヤアテドモナイガ/正月キブンガドコニモミエタ/トコロガ会ヒタイヒトモナク/アサガヤアタリデオホザケノンダ〉。巣籠もり中なので「したつもりの散策」をすることにしたのだが。ほろ酔い気分で徘徊する街の光景が、
  来るはずの京都市バスを待つことが祈りのようにある大晦日
                       阿波野巧也『ビギナーズラック』
  影に影、ひかりにひかり、早春の四条通りのざわめきを行く
                           土岐友浩『僕は行くよ』
になって。なかなか京都盆地から脱出できない。無理もない。中央線で新宿の次に降りた経験のあるのは三鷹駅。途中の街のイメージが浮かばない。
 と、中央線に行き着いたところで、懐かしい曲が浮かんできた。さっそくユーチューブで聴いてみることに。友部正人「一本道」の3番。〈僕は今阿佐ヶ谷の駅に立ち/電車を待っているところ/何もなかった事にしましょうと/今日も日が暮れました/あゝ中央線よ空を飛んで/あの娘の胸に突き刺され〉。サビの部分、思わず声を合わせて歌ってしまった。1番は夕焼けから始まるので、その残照が消えてしまうあたりの時間帯だろうか。
 そんなことをボーッと考えているうちに、意識はまた『金槐集』へ、
  くれなゐのちしほのまふり山の端に日の入るときの空にぞありける
の一首へおよぶ。そういえば、田中栄さんとこの歌の話をしたことがあった。大阪歌会のあと、いつものように上六の南海飯店でだったと思う。中ジョッキを空けて、少し能弁になられた田中さん。「あの歌、〈くれないのちしお、、、のまふり…〉ええなあ。好きやなあ。」と仰有ったのだ。実は自分は読み飛ばしていた歌だった。下宿に古語辞典も持っていなかった学生時代。「ちしほ」は声にすると「ちしお」だと気がついていなかったのである。田中さんに誦していただいて以来、すっかり気に入ってしまったのだった。
 かくて、二〇二〇年大晦日から二〇二一年元日の、巣籠もり中の放浪。実朝に始まり、実朝に終わったのである。

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