青蟬通信

古語が身に馴れるまで / 吉川 宏志

2021年1月号

 永田淳さんの新歌集『竜骨(キール)もて』に、次の歌があって、確かにそうだなあと思った。
  三度ほど使いてやがてわが詞(こと)となりたる心地「臥(こや)る」「彫(え)る」など
 「ゑる」という言葉を、私はこの歌で知った。
  深沈と神無月の空ひのくれは釣針形の繊月を彫(ゑ)
                          河野裕子『体力』
 「彫る」を「ほる」と訓(よ)んでも、あまり変わらないのだが、「ゑる」には、「ほったあとに金銀や宝石を散りばめる」という意味もあるらしい。それを踏まえると、鋭い月が暗い空に螺鈿(らでん)のように嵌め込まれているイメージが生まれてくる。「彫(ゑ)る」という一語の選びによって、歌の印象がとても鮮明になっている。
 ただ、「臥(こや)る」や「彫(ゑ)る」といったふだん使わない古語を自分が使うときには、かなりためらいを感じるものである。「臥(ふ)せる」とか「寝込む」とか、ふだん使っている言葉でいいんじゃないか、と迷う。古めかしい言葉を使うと、ちょっと気取った感じに受け取られそうである。
 おそるおそる使ってみて、初めはぎこちなくなってしまうのだが、何度か使っているうちに、自然な感じになってゆく。「三度ほど使いてやがてわが詞となりたる心地」は、まさにその通りなのである。
 それは和服を着るのと似ているのだろう。初めて着るときは、誰でも妙な感じになってしまう。しかしそれでも着続けているうちに、体に和服が馴染んでくる(と言いつつ、私は全く着物を着たことがないのですが)。
 古語を使うときも同じで、言葉に自分の身が馴れる、ということが大切であるように思われる。私たちは、人間が言葉を使う、というふうに考えがちだけれども、本当は逆で、言葉によって自分の身が変わっていくのである。
 口語短歌の全盛期に、古い言葉を使うのは抵抗があるかもしれないが、古い言葉に馴染むことで、新しい自己が生まれてくることもある。
  鑢(やすり)には動詞もあったはず身の内の深き憂鬱を夜にやすりぬ
                                『竜骨もて』
 「やすり」という名詞があるのなら、「やする」という動詞もあったのではないか、と想像している。「鑢」という漢字も印象的で、ユニークな発想の一首である(実際は、「やすり」は「矢磨り」から生まれた言葉らしく、「やする」という言葉は存在しないようだ)。
 ただ、「やする」という言葉を生み出すことで、自分の身のうちにある鬱屈とした感情が、いくばくか癒されたのである。ここにも、言葉によって自分の身が変わるという現象が歌われている。
  峠(たお)ひとつ越ゆれば明るき渓(たに)の見ゆわずかなるべし死までの時間も
                                 『竜骨もて』
 「峠」を「たお」と訓んでいる。「たお」(旧仮名では「たを」)や「たわ」は古い言葉で、「撓む(たわむ)」と同源らしく、山の低く窪んだ所をいうらしい。そんな低いところを越えて、昔の人々は山の向こう側と行き来をしていた。
 「とうげ」は「手向(たむ)け」から生じた言葉らしいが、「たお」や「たわ」とつながっている、という説もある。「たお」と呼ぶとき、山の風景のなかに染みこんでいる古い時間が見えてくる感じがする。単なる景色ではなく、そこに生きてきた昔の人々の存在が浮かび上がってくるのだ。
 そうであるから、「わずかなるべし死までの時間も」という生をはかなむ言葉が、実感的な悲しみを帯びるのである。
  死の後に死の影とうはなくなりぬ実家の庭に転がる青柿
                            『竜骨もて』
 これもはっとさせられた歌で、家の中に満ちていた闇の気配が、実際に亡くなった後には消えている、ということを、私も体験した。「死の後に死の影」はなくなる、という逆説的な表現によって、死を看取るときの不思議な感覚が伝わってくる。
 「死の影」は、言い古された言葉であるが、自分の身に引きつけるようにして用いることで、なまなましい感触が生じているのである。

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