八角堂便り

観覧車 / 真中 朋久

2020年12月号

 観覧車といえば栗木京子さんの「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)」(『水惑星』)が有名で、そのせいかどうか、先日ある場所で「観覧車の歌は恋の歌が多いですよね」という話になったがどうだろう。
 日本に観覧車が出現するのは明治に溯るらしいが、その頃の観覧車の歌は見当たらない。私の探索した範囲では、歌集の作品に現われるのはだいたい戦後になってからで、最初の頃の、その多くは淡々として風景であったり、俯瞰する視野を想像するものであったりした。
  観覧車ゆるく廻れば見おろされ人間の街の地平の濁り
                              武川忠一『氷湖』
  観覧車高くとまりておのおのに夕日を反す灯るごとくに
                             高安国世『光の春』
 当然のことながら、〈恋人と観覧車〉という風俗よりも〈子どもと遊園地の観覧車〉というほうが本来のパターンだっただろう。恋のイメージというのは、新しい、巨大な観覧車の宣伝にも影響されているかもしれない。
  観覧車停まる高みに子とわれとありて聞きたるひくき風音
                          藤井常世『草のたてがみ』
  潮風に鳴る観覧車とおき日にわたしは父とはぐれたるまま
                        岡部史『コットン・ドリーム』
 とはいえ、あまり楽しい作品が出てこないのが興味深い。藤井作品は、どうしたことか観覧車が停まってしまっていて、風の音もどこか不穏だ。岡部作品にも風が吹いていて、父と乗った観覧車を思い出しているということか。「はぐれたるまま」というのが哀切。
 家族あるいは親子というと、こんな作品もある。
  観覧車に乗りて来たると言う父母は古希近くして空にたゆたう
                            林泉『本とフラスコ』
  おぢいちやんへの冥土の土産と云ひながら八十八歳観覧車にのる
                          安藤純代『ナルドの香油』
  夕空に灯りて廻る観覧車いくら待ちても死者かえり来ず
                            青井せつ子『春の靴』
 老夫婦というのは、それはそれでほほえましく恋の歌のような感じがしないこともない。「冥土の土産」も、そうかもしれない。夜の観覧車に死者を思う青井さんの作品はしみじみと味わい深い。
  観覧車が休憩室の窓に見ゆカウントダウンみたいな日々だ
                              田宮智美『にず』
 最近の歌集から。円形で回転するという属性は時計のようでもあって、若い世代は若い世代なりに人生的なことを思うのだろう。栗木作品も、〈恋〉の場面というより、「一生(ひとよ)」の時間のほうが、むしろ中心主題だったのかもしれない。

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