八角堂便り

あのね、アーサー / 栗木 京子

2020年11月号

 岡井隆氏が七月十日に九十二歳で亡くなった。心よりお悔み申し上げます。
 初めて会ったのは三十五、六年前。中の会(東海地方在住者による超結社歌人集団。一九八○年に結成)の研究会である。当時、岡井は愛知県豊橋市に、私は岐阜市に住んでいた。
 中の会で面識を得てからしばらくして私は「ゆにぞんのつどい」に招かれた。このつどいは「未来」の岡井隆選歌欄の会員を中心にした研鑽の場である。ゲスト発言者として声を掛けてもらったのだが、このときのテーマはライトバースであった。岩波現代短歌辞典の「ライトバース」の項目で執筆担当者である私は「短歌では八五年のシンポジウム『ゆにぞんのつどい』で岡井隆がライトバースを提唱したことを嚆矢とする」と記した。まさにその記念すべきライトバース誕生の現場がこの時であったのだ。
 パロディや俗語や風俗を自在に取り込んだ作風。イギリスの詩人オーデンが一九三○年代に提唱したスタイルに、七○年代に谷川俊太郎をはじめとする詩人が注目。岡井はそこから刺激を受けて、いち早く短歌にも応用を試みた。
  あのね、アーサー昔東北で摘んだだろ鬼の脳(なづき)のやうな桑の実
                               『神の仕事場』
 例えばこの歌などに、私はライトバースの豊かな結実を見る。作者本人から聞いたところによれば、ある歌会で「終戦直後のことを詠む」という設定のもとに提出した一首であるという。したがって「アーサー」は連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー。日本に進駐したマッカーサーが東北の産物を好んで取り寄せたことを詠んでいるらしい。
 そのように聞けば、なるほどと思うのだが、じつに解釈の揺れ幅の大きな歌である。なぜ「あのね」で始まるのか。初句からして、わからない。ただ、そのわからなさが読者をくすぐるのである。
 『鑑賞・現代短歌 岡井隆』で小池光は、岡井が近藤芳美と初対面したときにその風貌にマッカーサーを重ねたというエッセイを踏まえて「近藤芳美に呼びかけているのかもしれない」と解釈している。さらに「東北」「脳」「桑の実」から斎藤茂吉への連想も読み取っており、とても魅力的な鑑賞だなあと思った。
 岡井作品の下句の「鬼の脳のやうな」の「鬼」は、じつは「兎(うさぎ)」と書いたものが間違って「鬼」と読まれてしまったらしい。医学者でもある岡井は兎の脳を解剖したことがあるはずで、「兎の脳のやうな」ならばリアリズムの描写ということになる。だが「鬼の脳のやうな」に変わると、たちまちミステリアスかつドラマチックな比喩が生まれる。誤読を修正せずに「鬼」のほうを歌集に収めたのだ。偶然性を愉しむこの姿勢こそ、ライトバースの真骨頂と言ってよいであろう。

ページトップへ