短歌時評

運用と手順⑩ / 吉田 恭大 

2020年11月号

 9月。恐る恐る、ではあるがしばらくネット上で開催していた歌会をオフラインで再開した。オフライン歌会、とわざわざ説明が必要になるくらいには、ここ数か月でオンライン前提の状況が固まってしまったように思う。疫病に対する危機感や、体制への警戒心や、色々と擦り減っていくことは多いけれども、何にせよ恐る恐るやっていくしかない。
 やっていく、しかない状況について考えている。
 まず、言葉、そのものについて。永田和宏は「塔」9月号「言葉は究極のデジタルである」において、現実世界をアナログ、言語をデジタルに対置したうえで言語表現の限界について「現実の景や、事象や感情を表現しようとする時、言葉と言葉の間には、だからかならず〈隙間〉がある筈なのである。この〈隙間〉に自覚的であることからしか、私たちの表現活動は始まりようがない。短詩型文学に携わる私たちは、その深いアポリア(難問)を抱え続け、耐えきる自覚がなくては表現者であることが叶わない。」と述べる。
 あるいは、作者について。
 「短歌研究」十月号、第三十八回現代短歌評論賞の課題は「短歌の新しい責任」。
 弘平谷隆太郎の受賞作は、その責任を「歌人」という表現主体に仮託させたうえで、その責任を果たすこと自体の困難さについて歴史を追ってアプローチしていく、というかなり周到な構造の評論であった。
 
 もし、短歌がなにか新しい役割や責任を負いうるのだとしたら、それは、ただこの
 空白にいることの強烈な自覚からはじまりえず、そして歌人はどこまでも、たった
 三十一文字を書きつづけることによってしか、その空白を埋めるすべを持ちえない
 のである。(弘平谷隆太郎「歌人という主体の不可能な起源」)
 
 同号の特集「短歌評論の責任」では。三上春海は穂村弘の「〈わがまま〉について」を踏まえつつ、ニューウェーブ以降の世代論について〈呪い〉と〈倫理〉という二つのキーワードを用いる。個人の特権的な〈わがまま〉が失効したあと世代の、社会的なマジョリティのもたらす〈呪い〉への対峙の仕方として、他者のために倫理的な〈呪い〉の在り方を模索しアップデートし続けることを「これからの責任」と見出す。
 
 「ひとりの夢や絶望は真空を伝わって万人の心に届く」と穂村は書いた。そのよう
 な「万人」などありえない。なぜならば、すべてのひとはそれぞれ異なるのだ
 から。この当たり前を確認することから、これからの責任論をはじめたい。(三上
 春海 「〈わがまま〉について/〈無責任〉について」)
 
 他者のための倫理的な呪いとは。「届く」ことではなく「届き得ない」ことを前提としたとき、重要となるのはもはや優れたワンダーとシンパシー(驚異と共感)を志向する特権的な作者ではなく、シンパシーからエンパシーへ(同一性から共有性へ)を求める臆病な作者ではないだろうか。
 シンパシーとエンパシー、について「ここで言うエンパシーとは、「わかりあえないこと」を前提に、わかりあえる部分を探っていく営みと言い換えてもいい。」(平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書)
 読者と作者、双方向の理解の上で共有性は成立する。わたしたちすべてのひとはそれぞれ異なる、ことをフィールドの最低限の了解としたうえで、言葉そのものの限界に悩みながら、それでもやっていく、書き続けるしかないのだろう。だろうか。

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