短歌時評

運用と手順⑨ / 吉田 恭大 

2020年10月号月号

 状況はますます悪くなっている、と前回の本稿の書き出しのまままた一ヵ月が過ぎた。客席を半分に減らした劇場の現場は、疲弊しながらそれでも状況に合わせてやっていくしかない。「ポストコロナの新しい時代の創作」といった惹句はどのジャンルの表現領域でも溢れていて、時節柄売り文句としてはどうしてもそうなるのだけれど、誰も彼も似たような看板を掲げ続けてしまっている現状には忸怩たる思いもある。
 
 短歌研究9月号。第六十三回短歌研究新人賞は平出奔「Victim」が受賞した。
  待ってても来ないだろうから行こうかな 米が炊けたら鳴る電子音
といった、動作と認識の順番を改めて言い当てていくような歌を個人的には面白く読んだ。受賞おめでとうございます。
 同号には『「短歌研究新人賞」の研究』ということで過去の同賞受賞作と受賞者の新作、および「受賞の秘訣」という実践的エッセイが掲載されている。実践的、というだけあって各人が割と身も蓋もないことを書いており、大変面白かった。
  短歌の新人賞が受験のような様相を呈しはじめたのはいつからだろう。少なくと
 も私が応募した頃(二〇〇五年頃に三回応募した)は、全体にもう少し大らかだっ
 た気がする。その数年後、大学短歌会の合宿などで応募用の連作歌会が開催される
 ようになった。学生短歌の人たちが全ての賞にこぞって応募するようになった。そ
 こから続々受賞者が出て、その年の受賞作の勉強会が催された。受賞することが短
 歌の世界に入る唯一の切符のようになり、落ちた連作の受け皿として同人誌が次々
 発行されるようになり、短歌新人賞浪人生のような人たちが生まれた。
というのは二〇一七年に書かれた花山周子による時評(「塔」2017年4月号・連作の新たな領域について思う(Ⅱ))。私自身、大学短歌会で応募用の連作歌会を開催し、こぞって新人賞に応募してきた側の一人であった。私が浪人生をしていた四、五年前から比べても、様相はいよいよ極まってきたな、という感慨がある。
 新人賞を主催する側の短歌研究社そのものが「受賞の秘訣」を特集している状況は、言ってしまえばまさにベネッセの受験産業のようだ。過去問、参考書、合格体験記。学生当時にこれがあれば、新人賞応募にどれほど役に立っただろうか。
 
 受賞経験も選考経験もない人間が言っても仕方ない話だが、新人賞はもう少し訳の分からない存在であってもいいのではないかと思う。連作の制作にはある程度の技術とノウハウが必要だが、新人賞の受賞自体はそこからさらに先にあるもので、合格体験記はあくまで合格した人の場合の体験記でしかないからだ。
 新人賞は明確な合格基準のある試験と違って、最終的には選考委員という人間が判断する。賞の選考は、その権能を持った人間たちが(応募者からすると納得出来たり納得できなかったりする理由を付して)作品に「新しい」とか「力のある」とか太鼓判を押して世に出すシステムである。
 新人賞の選考委員に限らず、読み手は、読めうる範囲の中で価値を決めていくことしかできない。その中で少しでも「新しい」「力のある」作品を見出し、賞としての価値観をアップデートしていくことが、新人賞の価値なのではないかと思う。
 特集の説明には「ブレイクスルーを目指す未来の受賞者の、ヒントになればと願う。」という言葉が付されていた。ブレイクスルーが必要なのは、応募者と同時に新人賞そのものの側でもあってほしい。

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