短歌時評

運用と手順⑧ / 吉田 恭大 

2020年9月号

 状況はますます悪くなっている。悪くなっている、という以上の説明がもう出来ない状況でこの原稿を書いています。皆様お元気ですか。PCR検査は受けられましたか。
 
 八月。六日の広島原爆の日を前に、ツイッターで三つのアカウントが話題になった。アカウントを含んだ一連のプロジェクトはNHK広島放送局により制作され、「ひろしまタイムライン」と命名されている。原爆の日に合わせた特番と連動し、「もし七十五年前にSNSがあったら」というコンセプトのもと、実在する広島市民の当時の日記から、それを基に現在のカレンダーの日付に合わせて発言を創作し、七十五年前の同月同日の様子としてオンタイムでツイートを投稿する、という企画であった。モデルとなった三人の市民のうち、「シュン」、「一郎」の二つのアカウントは三月二十六日から、「やすこ」のアカウントは五月十八日から稼働している。ツイートの運用と制作には現在広島で暮らす市民らのチームが携わり、さらに、一九四五年当時国民学校の生徒であった「シュン」のアカウントについては、モデルとなったご本人が存命であり、実際に制作において助言をしている。
 八月六日に至るまでの戦時中の市民生活の不穏な状況、また六日当日の、それ以降の市内の凄惨な様子について、実際の日記に基づいて記述された描写は、タイムラインで拡散され、それに触れた人々に対して、賛否を超えて大きな話題を呼んだ。
 まず前提として、NHKをはじめ、広島には、そして長崎にも、膨大な被爆体験の当事者たちの記録と、それを基にした優れた創作の蓄積がある。この企画は、いわゆる原爆劇と呼ばれるそれらのバリエーションの一つとして考えることができる。ツイッターのタイムラインを構築し、現代の時間軸に合わせて発言を「上演」してみせるという企画自体は、ネットを活用した挑戦的な試みとして肯定的にとらえることも出来るかと思う。
 その上で。個人的には、ツイートとして語られる七十五年前の広島の惨状、とはまた別の恐ろしさを感じた。それは、コンテンツの制作者側から、(鑑賞者と同様の)地続きな存在としての一市民のリアリティ、を受容するように誘導されているような気がしたからかもしれない。
 二十六歳の配偶者が出征中の主婦が、三十二歳の地方紙の記者が、十三歳の国民学校に通う少年が、私たち同様の一般の市民が、七十五年前にどう生きていたか、そしてその日をどのように迎えたかをタイムラインは克明に描写する。広義のフェイク・ドキュメンタリーに属するものが市民参画型の企画として成立し、それが「リアリティのある」コンテンツとしてオンライン上で受容され、消費されている状況。に対して、企画の完成度が高いほど警戒しなければならない。程度問題として比較に挙げるにはとても誠実ではないが、いわゆるネットで氾濫する「スカッとする話」のような、創作実話と原爆劇が、共感をベースに同様の消費をされている状況に対して、危機感を覚えた。
 これは企画自体への警戒であり、同時にタイムラインの需要のされ方に対する不信感でもある。ツイッターは元来、投稿者と鑑賞者が分かちがたく交わり、相互に消費されていく構造であると言える。そして、それは短歌ととても親和性が高い。
 共感とリアリティを前提にして他者をコンテンツとして消費するとき、あるいは私たちは共感とリアリティを言い訳に、むしろコンテンツとして消費「されたがっている」のではないだろうか。他者を消費することの疚しさと、自分を差し出すことの無邪気さについて。少なくとも現在の私たちが過去の私たちについて作品化することの暴力性は、ただ「想像する」だけでは免罪符にはならない。

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