青蟬通信

荒神橋歌会の思い出 / 吉川 宏志

2020年9月号

 岡井隆氏が亡くなった。紳士的な優しさと、冷ややかなまでの厳しさ。果てのない好奇心と、虚無的なアナーキーさ。矛盾するものが不思議な形で混じり合った人だった。私が若いころに、毎月のように歌会でお会いすることができたのは、とても幸運だったと思う。
 一九九三年に、岡井さん、永田和宏さん、河野裕子さんを中心に、京都で超結社の歌会が開かれることになったのである。会場の京大会館があった場所から、「荒神橋歌会」と名付けられた。
 岡井さんの歌会の批評は、それまで見聞きしてきたものとはだいぶ違っていた。荒神橋歌会では、一人五票ずつ入れるのだが、ほとんど票が入らない歌も出てくる。酷評が出た後に、岡井さんが「いやあ、皆さん、厳しいことをおっしゃるが、この歌は、なかなかいいですよ。(ニヤリ)」とあの渋い声で褒めてゆく。すると何だか、いい歌のように見えてくるのが不思議であった。達人の話芸を見るようなおもむきがあった。
 短歌は、批評の光の当て方によって、輝きが変わる面がある。岡井さんはそれをとても愉しんでいた。作品が実際以上に評価されてしまう危うさもあろう。しかし、主義主張によって裁断せず、細かいところに注目しながら、なるべく歌を面白い方向に生かすように読む、という姿勢は、とても新鮮だった。
 一九八〇年代はまだ、短歌をテーマやコンセプトで読む傾向が強かったと思う。パネルディスカッションがよく開かれ、「〈私〉は喪われたか」とか「文語か口語か」といったことを討論するのだが、非常に抽象的な話になることも多かった。
 そうではなくて、表現のおもしろさを丁寧に読んでいきたい、という時代の要請があった。岡井さんの歌会を重視する試みは、それを先取りしていたのだと感じる。
  CDをとり出すときの指先の力のやうな やはらかさかな
                            岡井隆『神の仕事場』
 この一首が歌会に出されたことを憶えている。ふつう、比喩は、言いたいことを何かにたとえて強調するために用いられる。ところがこの歌は、おもしろい比喩だけがあって、〈言いたいこと〉が存在しない。実際的な意味がなくて、手ざわりだけが濃密に伝わってくる。
 今ではこうした歌も珍しくないが、九十年代の初め頃は斬新だった。こんな歌を批評するには、意味やテーマを追っても駄目で、表現そのものを愉しみ、味わう態度が必要になる。私たちは無意識にCDを取り出しているが、それを言葉で捉えたとき、なまなまとした身体感覚が蘇ってくる。そんな些細なことが短歌では大切なのだ、という思いが岡井さんにはあり、この一首を歌会に出したのではないか。
  北窓のうつくしい刻がやつて来たレシピに生きよマニュアルは捨て
という歌が出されたこともあった。歌会では一票しか入らず、厳しい批評が出た。私もあまりいい歌とは思わなかった。ところが岡井さんは、
  北窓のうつくしい刻がやつて来たレシピに生きよマニュアルは閉ぢ
と改作し、『神の仕事場』の巻頭に置いたのである。すると、ずいぶん印象が変わり、とてもかっこいい歌に感じられたのは不思議だった。「閉ぢ」にすることで、ぐっと陰影が深まったし、歌集の巻頭という〈場〉に影響されて、新しい時代を自由に生きようとするマニフェスト的な力強さが加わってくる。歌会は匿名で読まれるが、作者名がセットになることで、歌の色彩は大きく変化するのだ。
 〈場〉の重要性をよく認識し、その〈場〉で最も鮮やかに引き立つ歌を切り札のように出す。その巧さと大胆さ。それが岡井隆という歌人の凄みであったと思う。
 『神の仕事場』には京都で詠まれた歌がいくつか収められている。読み返していると、歌会が終わった後は、ふいに無口になって去ってゆく、岡井さんの後ろ姿が思い出され、懐かしさと寂しさに襲われるのである。
  詩仙堂大(おほ)さざん花のはなの照り老いて性愛も異域に入るか

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