短歌時評

運用と手順⑥ / 吉田 恭大

2020年7月号

 全国に発令された緊急事態宣言は当初の期日であった五月三十一日を待たずに順次解除されていった。五月二十五日には東京都を含む最後の五都道府県が解除。世間に何となく「自粛の終わり」のような雰囲気が漂っているが、いわゆる第二波の予兆もあり、事態の収束にはまだ時間が掛かりそうだ。
 六月二日には東京都独自の警戒基準である「東京アラート」が発令、都庁やレインボーブリッジが赤くライトアップされているらしい。「東京アラート」にしろ「新しい生活様式」にしろ、医療や防疫の最前線を除けば、結局のところ個人の生活に求められるものは信心の域を出ず、それゆえ自粛警察のような同調圧力が過剰な反応を示すのだろう。イベントや歌会の開催については相変わらず判断が難しい状況が続いている。皆様いかがおすごしですか。十万円は届きましたか?
 
 『短歌人』五月号の特集は「時事詠に秀歌はあるか、ないか」。前回「運用と手順⑤」で取り上げた角川『短歌』五月号の「日常・社会詠はどう歌うか」が社会詠の、どちらかといえば創作側に立脚した企画であったのに対し、こちらは読み手の側としての扱いに着目したものとして企画全体が纏まっており、大変興味深く読んだ。
 まず最初に総論として斉藤斎藤による「論点集」があり、それ以降の八人の論者はひとまず秀歌あり、秀歌なし、のそれぞれの立場に立って論を立てている。「あり」が六人、「なし」が二人という別れ方であったが、各論を読んでみると題材が題材だけになかなかはっきりとした二分にはならない。そのグラデーションのつけ方に、むしろ各氏の丁寧な判断と立ち位置が伺われた。
 ちなみに歌論のあとに「時事詠を代表すると思う一首」というエッセイを十人が寄稿しており、こちらはタイトルと一首評形式の性質からか全て「秀歌あり」という意見であった。
 「論点集」で斉藤は、そもそも秀歌について、積極的な定義で扱う場合と単に「いい作品」くらいの意味で扱う場合を分け、そこから時事詠へのアプローチの難しさについて『すぐれた時事詠が、「秀歌」でもあることの難しさ』『当事者型の時事詠を評価する難しさの副作用』と論点を整理している。
  筆者の観察によると、「秀歌」という言葉が総合誌や入門書で使われるとき、
  「個人的な好き嫌いや特定の時代を超えて、短歌をたしなむ人の多くがすぐれ
  ていると認める(べき)一首」的なニュアンスを含むことが多い。
と秀歌の定義について斉藤が説明しているが、この「的なニュアンスを含むことが多い」という迂遠な言い回しが肝心で、いわゆる「秀歌」について人と意見を交わすとき、この段階からの説明と摺り合わせが必要になる。
 
 現在、世界規模で大きな影響を与えている疫病が、今後の社会や生活様式そのものを大きく変えていくとして。それ以前の作品を読み解くときに、状況の補完や解説が必要になる状況がこの先来るかもしれない。
 その時代の「秀歌」と現在においての「秀歌」は、どこかしらで大きく一致しないものが出てくるのではないか。
 敢えて例えるならそれは「自動車を運転する人」がリアルに居なくなった社会であり、「家族」や「恋愛」や「職業」の在り方が今よりもう少し(できればなるべくマシな方向で)アップデートされたあとの世界だろう。
 私たちの生活を支える多くのものが信心に過ぎないとして、これはそこから先の話だ。

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