青蟬通信

座談会「関西アララギ問題の焦点」 / 吉川 宏志

2020年7月号

 角川「短歌」昭和二十九年六月号を入手した。「関西アララギ問題の焦点」という座談会が掲載されている。出席者は、高安国世、近藤芳美、窪川鶴次郎(文芸評論家)、原子公平(俳人)。「塔」が創刊したときの反響が、なまなましく伝わってくる。
 冒頭に編集部が、企画説明をしているのだが、「今度の『関西アララギ』分裂問題にしても、ほんたうは大問題なんでせう。決してゴシップ扱ひにしたり、一時的な現象として見過してはいけないんだと思ふんです。その底にひそんでる核心を、根深く掘り起して、本質的に叩いてみないことには、話にならない」と主張する。「塔」が「関西アララギ」から分かれたことに、歌壇が強い危機感を抱いていたことがうかがえるのだ。
 高安は、「結社内の勢力争ひ」ではなく「文藝上の問題」なのだ、と押し戻し、次のように経緯を説明する。
 「関西アララギ」の前身である「高槻」が大阪で発刊され(昭和二十一年)、京都の学生歌人が校正を手伝うようになった。鈴江幸太郎や大村呉楼の選歌で、若い世代が良いと思う歌が落とされている状況を目にして、彼らは厳しい批判をはじめる。旧世代は立腹し「破門といふやうな言葉」も聞かれるようになったという。
 学生たちは「ぎしぎし」「フェニキス」というプリント誌を出すが、中心メンバーが病死したり、他の学生も卒業したりして、継続して活動するのが難しくなった。高安は、「高槻」に戻って内部改革をしていこうと呼びかけるのだが、それを裏切りのように感じた若者も多かったようだ。
 やがて「高槻」は「関西アララギ」と誌名を変え、選者や編集者が交替するが、若者の不満を抑えることはできず、ついに「塔」が創刊される。
 昭和二十九年ごろの大学生といえば、十歳くらいで教科書の墨塗りを経験している(ちなみに、私の父もそうで、よく話していた)。敗戦後、今までとは価値観が正反対になり、大人への不信感を強く心に刻まれた世代であった。だから、どうしても旧世代と相容れない、ということも起きやすかったのではないか。
「例へば歌会のもち方も古い人達と一緒にやつてゐると、この歌がうまいとかまづいといふことで、ちつとも文学論にならないんですね。それが彼等は不満だつたんですね。もつと生き方などから論じ合ひたい、といふ気持なんですね。」
と高安は語るが、興味深いところだ。現在の歌会なら逆に、作品と「生き方」は切り離して論じたいと思う若者が多いのではないか。時代によって、批評の理想像は変化するのだ。
「初めは僕は世代の違ひでも、文学論としてやり合ふことはプラスになると思つてゐたんです。古い人たちは古い人たちで生き方があるし、僕もそれは解りますしね。(略)ところが結局何も生まれて来ないので別れることになつたのですが、やつぱり出て行くとなると、非常に不愉快に思はれるらしいですね。(略)ただ、野心をもつて旗上げしようといふことで、出て行つたと思はれると困るんです。」
 板挟みになった高安の苦渋に満ちた言葉である。「高安君は(略)、理論を尽せば、最後に何かが出てくると思つて見てゐた」(近藤)けれども、感情的な対立をついに乗り越えることはできなかった。「塔」の創刊は、高安にとって、挫折感も含まれたものであったのである。
 座談会の後半では、窪川鶴次郎が、「関西アララギ」会員が「アララギ」本誌にも歌を出している事実をもとに、中央に地方が従属している関係になっているのではないか、と批判する。また「アララギ」という名称を地方で使うことには、権威主義もあるのではないか、と問いつめる。
 それに対して近藤が、「常に批判し、批判しながら継承して行つた、人間対人間のぶつかりあひで続いてきた文学結社(略)それ以外のアララギといふものは僕は考へないね。」と語っているのが印象的である。
 内部で闘いながら継承を続けるべきなのか。それとも分裂して新しい運動を始めるほうが良いのか。この座談会は、組織の在り方について、真摯な討議が行われていて、強く心に迫ってくる。

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