八角堂便り

三つの家常茶飯 / 山下 泉

2020年6月号

 樹木や水流の美しさが身に沁みるのは、感染症の緊急(非常)事態が宣言され日常生活が危うくなっているからだろうか。
 『家常茶飯』(二〇〇七年)という岡井隆の歌集がある。「日常のありふれた出来事といふ意味だが、直接には、森鷗外が訳したR・M・リルケの戯曲の題名「家常茶飯」を、そのままもらつて歌集名とした。」とあとがきにある。たとえば
  美しい詩だと一生を思つてみる藁灰(わらばひ)になつたあとでも麦だ
  いつもなら効(き)くころなのにMDのアダジオといふ流るる薬
  十二月八日溜飲を下げてゐし軍国少年も七十八歳
    鳥インフルエンザ・ウィルス雑感。
  かりがねの空より落つる片しぐれそのかりがねのはこぶ死の種子(たね)

といった歌がとても印象的だ。
 吉本隆明は、岡井隆のこの歌集に対して、短歌における生理的心理のあくなき追及が現代詩への直通の過程となり、詩の理念が短歌の実作において成し遂げられた、といった見方を示している。
 ところで岡井隆が題名にもらったというリルケの戯曲『家常茶飯』がどんなものか、私なりにプロファイルしてみよう。
①生活における因習的な垢を除去する。
②日常を見る目をリセットする。
③生の純度を再発見する。
といった理念が、主人公の画家と、その姉、令嬢ヘレーネ、モデルのマーシャとの三様の対話において浮き彫りになるというスタイル。海外文学の翻訳や紹介に猛然と取り組んでいた鷗外はこの戯曲の現代性を感知し、一九〇九(明治四二)年に翻訳したのが、日本初のリルケ作品の紹介となった。雑誌「太陽」への発表では「現代思想(對話)」というインタビュー仕立ての解題が付されていて興味深い。記者に題の由来を聞かれ「原語は日常生活です。併しさう云つては生硬になるのが嫌です。(中略)もつと優しい、可哀らしい、平易な題が欲しいのですが、見附かりませんでした。」と答える。また「我百首の中で、少しリルケの心持で作つて見ようとした處が、ひどく人に馬鹿にせられましたよ。」などと語って面白い。
 高安国世は、「我百首」の短歌の中にリルケ的なところは特に見つからないが、
  此恋を猶続けんは大詰の後なる幕を書かんが如し
などは、『家常茶飯』における画家とヘレーネの電撃的な出会いと別れのエピソードを表現した可能性があり、西洋詩の発想や喩を「我百首」の異相の源と考えた。「我百首」は訳詩、創作詩と共に短詩として詩集『沙羅の木』に収められたのだ。
 リルケの『家常茶飯』が高安国世の文学的出発を促したことも知られている。
  みまかりし子に肖(に)ると思ふ末の子の女(をみな)にて赤きジャケツを着たり
                          (「家常茶飯」『真実』)

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