百葉箱2020年6月号 / 吉川 宏志
2020年6月号
院内の売店の櫛購(あがな)はすこれから抜けむ髪を云ひつつ
篠野 京
抗癌剤で髪が抜けることを言いながら、母にを買わせている場面。痛切な思いが籠もる。
「お客様の安全」のため蜻蛉羽(あきつは)のマスクを着けてゆく落語会
空色ぴりか
「蜻蛉羽」は美しい布の意味。落語会という場面がリアルで、現状をシャープに描く。
ひめうずら寒の戻りに一羽死に一羽になりて名を付けてやる
小山美保子
一羽だけが生き残ったので名前を付ける、という人間心理に、はっとさせられる。「ひめうずら」という言葉も印象的。
スプーンの群れが光っているような水面に溶けてしまえればなあ
今井裕幸
比喩がとてもユニーク。現実から逃げたい思いを、ふと漏らしたような結句も共感を誘う。
修理したはずの靴から春先の雪がにじんで ゆるされたいな
北虎あきら
結句の飛び方がおもしろい。雪の冷たさに責められているような感覚。それでも甘えたさがある、微妙な心理なのだろう。
湖(うみ)を背に小さなカフェを開こうか 真ん中の桜一本切りぬ
松村豊子
現実的な場面と読むほうがいいだろう。湖がよく見えるために桜を切る。決断することで迷いを消そうとする思いがある。
水筒に残ったお茶を飲み干して今日という日が今日また終わる
紫野 春
具体的な上の句に実感がある。下の句は当たり前のことだが、「今日」を繰り返すことで過ぎてゆく時間を惜しむ思いが伝わる。
言ひたいのはそんなことぢやない 曇天が夕べの空を飲み込んでゆく
鈴木むつみ
上の句の悔しさの口語を、下の句の灰色と赤色を感じさせる表現がうまく支えている。
内側を上にしてマスク落ちてをり自力で戻れぬ亀のごとくに
永山凌平
マスクが落ちている歌は幾つかあったが、この歌の比喩は独特で、特に印象に残った。
始まりがあれば終りがある理わりの蠅という字の筆順を確かめる
山本建男
上の句はよく言われることだが、下の句の展開に意外性があり、なるほどと思わされる。リズムが悪いのがちょっと惜しい。
父さんの鼻からドクターイエローが生える絵本をいつか描くから
内海誠二
ドクターイエローは保線用の黄色い新幹線。まだ絵本を読めない幼児がいるのだろう。成長したら描いてやりたい絵を思っている。奇抜だが優しい一首。
電灯が初めて引かれた夏の夜のご飯粒たち総立ちになる
ジャッシーいく子
遠い日を回想した歌。「総立ちになる」がよく、電灯の下で初めてご飯を食べたときの喜びが、いきいきと蘇ってくる。
See Youと午前零時に液晶は静かにきょうの歩数消したり
生田延子
万歩計の数字だろう。日常がデジタル化され、すぐに消えてゆく数字の虚しさも感じられる。
前を行く人が残した残額を追い越しながら改札くぐる
竹田伊波礼
この歌も、意外なところにある数字を捉え、数字に囲まれた現在を見せてくれる。