青蟬通信

/ 吉川 宏志

2020年5月号

 近所に萩書房という古本屋があり、ときどき昔の歌集を非常に安い値段で並べていることがある。先日のぞいたら、堀内通孝の『北明』という歌集が置かれていた。この歌人の名前は聞いたことがある。『現代短歌大辞典』によると、一九〇四年生まれ、一九五九年没。斎藤茂吉の弟子で、「清純な中に都会的陰影を宿す作風」という(清水房雄執筆)。
 『北明』は昭和二十二年の刊行。敗戦から間もない時期で、東京では印刷所も焼けてしまったためか、版元は札幌青磁社というところ。緑青の枠で、題字を囲んでおり、シンプルで爽やかな装丁である。
 早速読んでみたが、目立つ作風ではないけれど、とてもいい歌集だと思った。
  退潮(ひきしほ)の水のうごきにおびただしき海苔ながれゆく河口に向きて
  きさらぎの半ばを過ぎしゆふべにて凍りし路の青き竹の葉
  立ち添ひしわれみづからが照るばかりここの公孫樹はいろづきにけり
 絵画的で穏やかな自然詠が、堀内の本領だったのだろう。ただ、歌集巻頭の一首はちょっと変わっている。
  夕光に芽ぶきのにほふ柳一群(ひとむら)中の一二本は水より立つ
 下の句がかなりの破調。川原に柳が幾つも生えていて、一、二本だけが、川の水の中に幹がある。そんな情景なのだろう。リズムを整えたほうが、いい歌になりそうである。しかし、あえてリズムを崩したところに、当時の堀内の試みがあったように思う。戦争の時代、静かで整った歌だけに留まるのは難しかった。韻律の中にも、時代が生み出す乱れのようなものは入り込んでくる。
  “Eppur si mouve”の話がひそかなる安らぎにして幾日か居り
という歌もある。この言葉は何なのか、調べてみると、ガリレオの「それでも地球は動く」であるらしい。自分は正しいはずなのに、その考えは社会に受け容れられてもらえない。その悔しさを、あえて分かりにくい表現を用いて歌っている。昭和十六年の歌だが、分かりやすい言葉で書くと、自分の身が危うい時代に、すでに入っていたのかもしれない。
 驚かされたのは、
  霜柱たちしままなる庭畑にひとつかみほどの夕光(ゆふかげ)あはれ
という歌。「ひとつかみほど」は、寺山修司の、
  一つかみほど苜蓿(うまごやし)うつる水青年の胸は縦に拭くべし
                         『血と麦』(昭和三十七年)
が有名で、オリジナルな表現と思っていたのだが、先行例があったわけである。もちろん、堀内より前に「ひとつかみほど」を使った歌があるのかもしれない。短歌の言葉は、時間の中で連鎖していることに、あらためで感銘を受けるのである。
 『北明』に、戦争を直接歌った作はほとんどない。戦後の検閲を恐れて、削除してしまった、というのが正確なところだろう。ただ、敗戦後に作られたこんな歌が印象に残る。
  あきらめわるく貯金の分散たのみくるこの人がかつての外地駐在武官か
 堀内は銀行に勤務していて、戦後の預金封鎖を経験した。いくら貯金していても一つの口座からは引き出せなくなるわけである。それで、かつては威張っていた軍人が、預金を分けることを無理に頼みにきたのだ。こんな、自分の利益しか考えていない人間が、戦争を遂行していたのかと、あきれ、情けなく思っている。何やら現在でも通じそうな歌である。
  焼跡の雪の深きを来しときに北遠くしてしばしの明り
  「北明(ほくめい)」とみづから言ひてかすかなるこの明るさにひとり安らぐ
 一首目、痛々しい敗戦の風景の中に、はかない希望を見いだしていて、名歌と言っていいと思う。そこから「北明」という言葉が浮かんできて、それが、自分を支えるものになった。歌集の題名をつけるとき、制作途中で「これしかない」という言葉が出てくるときがある。その瞬間が描かれていることに、共感をおぼえるのである。
 『北明』はいわば忘れられた歌集だが、その中にある静かな輝きを知ることができて、とても嬉しかった。

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