百葉箱

百葉箱2020年4月号 / 吉川 宏志

2020年4月号

  相撲とりの手形の裏にひそむ蜂あはれがりしがつひに殺したり
                               篠野 京

 あの赤い手形の裏に冬の蜂が潜んでいたのだろう。場面が珍しく、印象的な一首。小さな殺生でも、強い悔いを残すことがある。
 
  少し前に上がった雨だが操車場を過ぎて再び雨の尾に入る
                             橋本恵美

 「雨だが」の口語や「操車場」が効いて、臨場感のある歌になった。「雨の尾」もよく、雨が一つの生き物のように感じられる。
 
  透きとおった鱗でつくる顔面の美空ひばりはますます死んで
                              大森静佳

 紅白歌合戦のAI美空ひばりを詠む。「鱗」が不気味で、CG画像の無機質さを捉えている。下の句が逆説的で、考えさせられる。
 
  吾が妻の寝顔を眺めいる如く母の寝顔を父も見けむか
                           杜野 泉

 シンプルな表現の歌だが、しみじみとした味わいがある。「けむ」という文語は、このような歌の場合、深い奥行きを生み出す。
 
  汐見坂をくだれる君の向かうから杖をつきつつのぼりくる人
                              竹尾由美子

 「汐見坂」という地名がよく、やはり海が見えるのだろう。杖をついている人は赤の他人だが、別れの場面で、妙にそんな人の姿が記憶に残ったりする。
 
  こぶくざくらは子福桜と書くを知る羽毛のごとしかそけき桜
                              山口淳子

 「子福桜」が繰り返され、伸びやかな歌になった。「く」の音が多いリズムもおもしろい。
 
  点となるあたりに森はあるのだろう鳥かろがろとビルを越えゆく
                                黒木浩子

 作者は街の中にいるが、遠ざかる鳥が点のようになるあたりに、森があるのだろうと想像している。語順により、ねじれたような遠近感が生まれている。
 
  一心に数式を解く君の手に冷たい指で触れる 雪だよ
                           小川さこ

 部屋の中の「君」の手に触れ、外の雪の冷たさを教えているのだろう。「数式」と「雪」の組み合わせや、結句のリズムが魅力的。
 
  きみの寝息ありがとう寝言ありがとう 寝台列車で泣かずにすんだ
                                 小松 岬

 「ありがとう」の繰り返しがとても生き生きとしていて、切ない思いが伝わってくる。どんな場面か、いろいろ想像できるが、言葉の勢いをまず味わう歌だろう。
 
  お先にと「閉る」を押して降りゆきし人ののこり香最上階まで
                               林 貞子

 エレベーターを降りるとき、気を遣って「閉」のボタンを押す人がときどきいる。その一瞬を切り取ったおもしろさがある。
 
  雪を踏む左右の音に強弱のありてわが身の歪みを知りぬ
                            渡部 和

 雪を踏んだときの音で、自分の身体の違和感を捉えている。風土と身体のつながりを感じさせ、なるほどと思わせる歌。
 
  君の歩(あり)く半歩後ろに自転車を押し行く我を押す 冬銀河
                              小島涼我

 冬銀河に押されながら、君のあとを歩いていく。うつむくような、孤独的な若さが感じられ、空間の広がりも美しい一首である。

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