青蟬通信

今、『ペスト』を読む / 吉川 宏志

2020年4月号

 先月の編集後記にも書いたが、カミュの『ペスト』をずっと読んでいた。アルジェリアのオランという町が、ペストの流行のために封鎖される話。新型コロナウィルスの蔓延に重ねて読む人が多かったようで、よく売れているという。
 私はかつて途中で挫折したのだが、今回は身に迫ってくる感じがして、美しいラストに到達することができた。これから読む人のために書いておくと、パニック映画のような展開を期待すると裏切られます。前半はむしろ退屈な感じで、小説の語り手も「大きな災禍は単調なもの」だと述べ、「すべてのものを踏みつぶしていく、果てしない足踏みのようなもの」と喩えている。この表現が今、とてもよく分かる。何もできず、不安なまま、じっと待つしかない状況を、この比喩は適確に捉えている。
 未来が見えない災厄の中で、人間はどのように生きるべきか。『ペスト』は、その問いに対する作者の思想を、非常に明確に書き記している。思想を露わに書くことを避ける今の小説とはかなり手触りが違う。ただ、次の一節など、特に心に響いてくる。
「筆者はむしろ、美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い讃辞を、悪にささげることになると、信じたいのである。なぜなら、そうなると、美しい行為がそれほどの価値をもつのは、それがまれであり、そして悪意と冷淡こそが頻繁(ひんぱん)な原動力であるためにほかならぬと推定することも許される。かかることは、筆者の与(くみ)しえない思想である。世間に存在する悪は、ほとんどつねに無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。」
 英雄的な行為が賛美されるのは、現代でもよくあることだが、カミュは厳しく批判する。本来は、一人一人に善を行う力は備わっているはずなのに、有力な誰かがやってくれればいい、という他人任せの心情が生まれてしまうからである。有名な政治家などに任せておけばいい、という風潮は、現在もしばしば見られるものだろう。また、知識がないために善意が悪に転化する、という指摘は、インターネットの時代には、さらに身に沁みるものになっている。
 宗教に救済を求める人々も、同じ陥穽にはまってしまうことがある。神が救ってくれるから、自分は何もしなくていい、という発想に陥りやすいのだ。「おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです」。
 ペストから町を救ったのは、英雄ではなく、自分がやれることを献身的に行った人々だった。だが、その多くは病に倒れ、行為は忘れられてゆく。だから、生き残った者は書き残さねばならないのだ、という決意が示され、小説はラストを迎える。
 カミュは、ナチスドイツに占領されたフランスで、レジスタンスをした人である。知られることなく死んでいった仲間を鎮魂する思いが、ここには重ねられているのだろう。
 カミュの影響を強く受けている歌人といえば、三枝昂之が挙げられる。第一歌集『やさしき志士たちの世界へ』(一九七三年)の巻頭歌が、
  まみなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミュへ
なのだ。「赤軍」と並べるのにはぎょっとするが、カミュを「志士」として敬意を捧げた歌といえるだろう。
 ただ、カミュ的な思想は、最近の歌のほうによく表れている感じがする。
    辺野古反対運動の田仲さん
  土に生き干瀬にすなどることばなり あきらめず、めげず、息切れせず
                                『遅速あり』
 農と漁を営みながら、反対運動をしている人なのだろう。暮らしの中から生まれてくる、忍耐強い抵抗の言葉に、三枝は感銘を受けている。自分の意志で、善いと思うことを、淡々と実行していく。『ペスト』に描かれた人々と共通する姿に、希望を見いだしているのだ。
  もうニュースは消しておのれに戻りたり非力な非力な言葉のために
                                『遅速あり』
 こんな歌にも私は深く共感した。

ページトップへ