百葉箱

百葉箱2020年3月号 / 吉川 宏志

2020年3月号

  お互いの写真を撮らぬ心地よさ同じ灯りをそれぞれ撮りて
                             白水ま衣

 互いに見つめ合うよりも、同じものを見るほうが心が安らぐときがある。「同じ灯り」に温かさがある。
 
  手袋でぬぐひて作る小(ち)さき窓樹々の間を飛ぶ海を見る
                            長谷部和子

 結露した窓をぬぐい、自分の窓を作る、という表現がみずみずしい。「飛ぶ」という語で、電車のスピード感が伝わる。
 
  三十二年あなたに言わないさようなら駅を出て高い月を指差す
                               朝井さとる

 結婚して三十二年経ったのだろう。同じ家に帰るので、「さようなら」と言わなくなる。慣れてゆく寂しさに抗うように、月を一緒に見ようと誘う。
 
  待ちかまへて鳥がふはりと降りたのは雪のにほひのする風のうへ
                                岡部かずみ

 文体が独特で、鳥の動きをスローモーションで見るような印象が生み出されている。
  
  マイナンバーカードを受けとる手のひらの静脈もまた識別の器具
                                永野千尋

 二重三重に自分が管理されている不気味さを、リアルな一瞬を切り取ることで描いている。
 
  そのうちに雪です例えばこの村は雪葬のようにそれは降ります
                               中山大三

 口語の息づかいがなまなまと伝わってくる歌。「雪葬」がインパクトのある言葉で、雪の恐ろしさや暗さが伝わってくる。
 
  川の面に冬の陽あはく映れるを守るがごとく鴨あつまれり
                             安永 明

 よく見る風景だが「守るがごとく」がいい。焚き火に人が集まるような感じを思わせる。
 
  自死思ひ三度目に果しし芥川の別荘しづかに湯布院にあり
                             柴田匡志

 作者は若くして亡くなった。芥川龍之介への心寄せが、今読むと、哀切である。
 
  桃太郎の母ですとまず挨拶し赤鬼の子のママと語らう
                           宮野奈津子

 幼稚園の劇なのだろう。桃太郎にこらしめられる赤鬼を演じた子の母親なので、ちょっと後ろめたい気持ちもある。母同士の距離感がおもしろい。

  明恵上人の耳のふたたび生えてこず湖面を彫れるあかあかや月
                               東 勝臣

 上の句、当たり前なのだが、このように表現されると恐ろしい。下の句は明恵の名歌の本歌取り。「彫れる」にも工夫がある。
 
  画用紙を角の角まで塗りつぶしこれはね海だよ青い手が言う
                              鈴木晶子

 子どもが画用紙全部を使って、青い海を描いている様子がいきいきと歌われている。「角の角まで」がいい。結句も、はっとさせられる表現である。
 
  海を見たことのない人は人類の半分はいる、はずだよね、たぶん
                                橋本牧人

 なるほど、と思わせる発想を、自由な口語で歌っており、楽しい一首となった。

  ママ遅刻しちゃうよと言う子は我にオムツを替えられているところ
                                大和田ももこ

 子育ての忙しさが、言葉の勢いによって、まっすぐに伝わってくる歌。切羽詰まった状況だが、思わず笑ってしまう。

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