八角堂便り

石牟礼道子の苦悩 / 前田 康子

2020年3月号

 一月号の方舟に石牟礼道子の短歌、水俣の映画のことなどを書いた。あの続きを言えば二月に映画「MINAMATA」はベルリン国際映画祭で初上映され、音楽は坂本龍一が担当する。日本での公開が楽しみである。
 さて石牟礼さんの全歌集『海と空のあいだに』の年譜によると歌を始めたのは十六歳の頃とある。初期から死と向き合う苦しい歌が多い。
  黒くなつた血液が音をたてて逆流するひとさじの昇汞を投じた躰が
 「昇汞」は塩化水銀。幼い頃から死への願望があった石牟礼さんは、働いていた学校の理科室からそれを持ち出し飲んだという。当たり前だが、のちにチッソの水銀による水俣事件に関わることをまだこの頃はまったく予知しない行動だったのだ。米本浩二の評伝『不知火のほとりで』を読むと、石牟礼さんの三度目の自殺未遂はお腹に子どもが宿り、生まれる四ヶ月ほど前である。亜ヒ酸を用意していたができなかった。そして出産ののちも、歌友の死に感化され、夫子をおいて再び死のうとする。今度はその時に子どもが病気になったため思いとどまる。米本はこの一人息子の道生さんのことを「母親の救済のために生を授かった、救済の女神を救済する」と書いている。
  我が内に巣喰ふ両極を律しゆく吾子にむかへば祈りにも似る
 両極は生と死、夢と絶望、孤と群、さまざまに考えられる。幼い頃から狂人の祖母と暮らしていたこともあり石牟礼は自分のことをこの世に居場所のない者のように感じていた。
  うつくしく狂ふなどなし蓬髪に虱わかせて祖母は死にたり
 「うつくしく狂ふ」といった文学的な表現を打ち消して祖母の最期をありのままに詠んでいる。
  おとうとの轢断死体山羊肉とならびてこよなくやさし繊維質
 ぎょっとするような歌。弟が列車にはねられて亡くなった。弁当箱に買った肉を入れて持って帰る所だった。その肉片と並んで弟の身体の一部も落ちていたのだろう。すさまじいリアリティだ。
  あおむけの海のあばらを脱けて来し毒魚らゆっくりと渚によれり
 水俣病を詠んだ歌は数少ない。「海のあばら」に工場排水により痩せて豊饒さをなくした不知火の海が浮かぶが、事実が定型に入りきらないもどかしさも感じる。
 この世の残酷な不条理を石牟礼さんは幼い頃から鋭敏に感じ取っていて、結婚をし子を持っても絶対的な孤独のなかにいた。その石牟礼さんが水俣病の患者たちに出会ったとき、その内なる苦悩を文字にすることが出来、石牟礼さん自身前に進むことが出来た。そこにはもうひとつ、石牟礼さんの他者への共感能力の高さがあったとも言われている。

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