青蟬通信

あげたい / 吉川 宏志

2020年3月号

 塔会員の、いわこしさんが、ゴイサギ読書会を作られた。京都の塔事務所で、一、二か月に一度ずつやっていくそうである。第一回は吉田恭大の『光と私語』を取り上げた。いわこしさんは、この歌集がよく分からないけれど、魅力的だったそうで、他の人たちと一緒に読んでみたい、と考えたという。それはとても大切なことだ。私もその熱意に共感して、この読書会に参加した。
 その中で、分からない歌として挙げられたのが、次の一首であった。
  自転車屋に一輪車があって楽しい、あなたには自転車をあげたい
 もちろん、言葉の意味はよく分かる。しかし、なぜこんな歌い方をするのか理解できず、とまどってしまう。そういう声が何人かから上がった。
 それを聞いて、ふと思いついて、こんなことを話した。
  1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン
                     永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
  この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい
                           笹井宏之『ひとさらい』
 近年の若い世代の歌で、何かをあげたい、けれども何もあげられない、というニュアンスを表現しているものを、ときどき見かける。
 方向性は違うのだが、
  空港をくださいどうかてのひらにおさまるほどの夜の空港
                     笠木拓『はるかカーテンコールまで』
にも同じような空気感がある。
 「1千万円」「図書館」「夜の空港」は、外形的にはまったく違うけれど、あえて簡単な言葉でいえば、公共的な幸福の象徴ではないだろうか。笹井の歌では「まちがえて」という一語が印象的なのだが、運命がどう変わっても実現できない、という諦念が隠されている感じがする。みんなに幸せを与えたいけれど、何もできない無力感が、こうした歌の背後にひそんでいる気がするのだ。
 吉田恭大の歌もおそらくその延長線上にある。自転車屋には子供用の一輪車も売られていて、いかにも楽しそうだ。家庭的な幸福感といっていい。その明るさを「あなた」にあげたいが、自分には不可能なのだという悲哀がひそんでいるのではないか。
 まあ、これは深読みなのかもしれない。ただ、現代の若い世代の歌のキーワードとして、「あげたい」に注目すると、見えてくるものがあるように思う。「図書館」や「自転車屋」などの具体物にこだわると、かえって分からなくなる。それらは比喩的なものであって、むしろ「あげたい」という行為のほうを捉えていくのが、読み方のコツだと私は考える。
  人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい
                              吉田恭大 
 これも「……たい」の歌。上の句は港で船を見送るようなイメージだろう。自分自身が、手を振られるような名誉を得ようとは思わない。でも「乗りたい」なので、栄光を浴びる存在に、少しでも関わっていたい、いう欲求はある。エゴイズムが薄くなり、もっと大きな幸福を願う、現代の若者の慎ましいメンタリティーが、こうした歌にさりげなく刻まれている(逆に、良くも悪くも、個人の欲望をぎらぎらと追求したのが、バブル世代の若者だったといえよう)。
 『光と私語』は、現在の空気が鮮明にあらわれている歌集だ。ただ、そんな流行の部分とは違う、やや古風な歌に私は惹かれた。
  乗り遅れたバスがしばらく視界から消えないことも降雪のため
 雪のせいで道が渋滞していて、乗れなかったバスがまだ遠くに見えているのだ。結句の「……ため」がやや理屈っぽいが、雪の日の情景がくっきりと目に浮かぶ、いい歌だ。
  枚数を数えて拭いてゆく窓も尽きて明るい屋上にいる
 これもオーソドックスな歌だが、「枚数を数えて」に新鮮さがある。
 「分からない歌」を解読していくことも歌集を読む楽しみの一つだ。しかし、よく分かる歌で、しかも清冽な作を深く味わうことも大切だ。読書会では、そういった歌も見逃さないようにしていきたい。

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