青蟬通信

『まだまだです』のおもしろさ / 吉川 宏志

2020年2月号

 カン・ハンナの第一歌集『まだまだです』が出た。ご存じの方は多いと思うが、カン・ハンナは韓国人で、来日して日本語を学び、短歌を作っている。それだけでもすごいことなのだけれど、作品としても新鮮で、読みごたえのあるものが多かった。驚かされたのが、
  千切りのキャベツの山をしぼませるドレッシングはまるで君のよう
という一首。確かに、トンカツの横などに盛られている千切りキャベツにドレッシングをかけると、くしゃっと小さくなる。日常的なものが、こういうふうに言葉で表現されると、まったく別の色彩で見えてくる感じがする。「しぼませる」もおもしろい。じつに適確な動詞の選択である。
 一緒に楽しく時間を過ごしていたのに、一瞬で悲しくなってしまうような「君」の冷たい言動をたとえているのだろう。
  手術後の消えない傷は冷えるたびまた痛み出す 三十八度線
 身体の傷から、韓国と北朝鮮との境界である三十八度線に、結句で大きく飛躍する。自己と世界を、言葉によって大胆に結びつけることで、祖国が分断されている痛みを、実感的に表現している。「ように」などを使わない、短歌独特の比喩の方法を、うまく用いている。
 身近で小さなものを描きつつ、日本と韓国の関係という大きなテーマを考えさせる・感じさせる歌が、歌集の中にいくつもある。
  日本語の「行けたら行く」は「待たないで」の意味だったのか 飴を舐めつつ
 なるほどなあ、と思う。なにげない言葉の中にも、外国の人には分からないニュアンスがひそんでいることがある。それがときどき深刻な誤解を生むこともあろう。結句がよく、飴を舐めながら待ちぼうけをしている姿が浮かんでくる。
  マグカップ両手で持って飲むわれをイルボニンぽいと友がまた言う
 「イルボニン」は、日本人という意味。マグカップを両手で持つという動作を、韓国人はあまりしないらしい。韓国に帰ったとき、友人にそれを見つけられ、「日本人らしくなってきたね」とからかわれた場面なのだろう。友人には、ちょっとした寂しさもあったのかもしれない。
 身体的な仕草も、国によって細かく違っていて、無意識のうちに人は染まっていく。明るい印象の歌だが、その中に鋭敏なまなざしがある。
  殴り合うだけの世界に差別などないと在日のボクサーは言う
 最近日本にきた韓国人と、在日韓国人との間にも、懸隔はあるのである。実力だけの世界には差別はない、というボクサーの言葉は、そうではない世界には差別があることを暗示している。それ以上は何も言っていないが、在日韓国人が背負わされてきたものを知ったときの痛みや悲しみが滲んでいる歌だ。
  切ってあげる伸びた鼻毛を切ってあげる 母の頭をふんわり押さえ
 韓国に住んでいる母を詠んだ歌も、大変ユニークである。母の鼻毛を切る、というのは、日本人の短歌ではまず見ることのない行為だろう。でも、作者にとっては自然なことなので、伸び伸びと素直に歌っていて気持ちがいい。
  「三人目も娘を産んでごめんなさい」若き日の母は言ったんだろう
 韓国には、家を継ぐ男の子を産まないと責められるという因習が残っているのだろう。自分を産んでくれた母が謝っている姿を想像している、非常に哀切な歌である。
 ただこれは、日本にもやはり残っている差別意識なのではないだろうか。だから、「言ったんだろう」という、つぶやくような結句の背後にある悔しさや悲しさが、身に沁みるように分かる(私は男性だけれども、分かる)。
 最近の短歌は、他者を歌うことが少なくなっているが、さまざまな他者の姿をいきいきと描いているところがとてもいいと思う。韓国と日本の違い、そして共通性が、とてもリアルに感じられる一冊だった。

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