青蟬通信

なぜ文語で短歌を作るのか / 吉川 宏志

2020年1月号

 昨年の十二月、大辻隆弘さんと「文語短歌は生き残れるか」というタイトルで対談をした。
 私が短歌を始めたころは、『サラダ記念日』がブームになっていて、「なぜ口語で短歌を作るのか」という問題がよく議論されていた。
 しかし、現在は若手を中心に、口語が当たり前に使われるようになり、逆に「なぜ文語で短歌を作るのか」が問われる時代になっている。どうして、普通の会話では使わない「たり」や「をり」などを使うのか。文語で短歌を作る人は、この問いをつねに考えておく必要があるのだろう。
 文語独特の音楽的な美しさというものがある。
  あまのはら冷ゆらむときにおのづから柘榴(ざくろ)は割れてそのくれなゐよ
                               斎藤茂吉『霜』

 茂吉の歌の中でも特に好きな一首だが、やわらかな言葉の流れが、陶酔的な美感を生み出している。こうした快さにあこがれて、歌を作っている面が、私の中にはあるし、多くの人もそうなのだろう。
 ただ、逆に文語によって違和感を生み出すという方法も、現代短歌には存在するのではないか。
  くれなゐのホールトマトの缶を開けいつかの夏を鍋にぶちまく
                             門脇篤史『微風域』

 昨年出た、若い世代の歌集から引いた。結句の「ぶちまく」は文語に見えるが、平安時代にはこんな言葉はなかった。現代語の「ぶちまける」を元に作られた、いわば偽の文語なのである。
 しかし、このちょっといかがわしいような言葉の手触りが、缶詰のトマトを鍋に入れるときの、どぼどぼという感じをうまく表現している。そして、失ってしまった夏への悔しさのような感情も籠もる。
  ハムからハムをめくり取るときひんやりと肉の離るる音ぞ聞ゆる
                                同
 
 現代短歌で、「ぞー連体形」という係り結びを見るのは珍しい。この歌では「ぞ」という響きが重要なのだろう。私たちはハムをただの食品としてしか見ないことが多い。しかし、言うまでもなく、生きていた動物の肉なのである。それを思い出すとき、生命を単なる物質として扱っている恐ろしさが湧き上がってくる。その、ざらっとした違和感が、「ぞ」の音に入っているのではないか。
 〈文語〉と一口に言うけれど、陶酔感のある文語や、違和感を生み出す文語がある。文語にも、さまざまな感触の違いがある。それを意識することが大事なのだと思う。
  幾重にも緩衝材によろはれて死にけるひとの画集は届く
                            同
 
 「けり」という助動詞は、短歌でもあまり見なくなった。文法的には「けり」は伝聞過去なので、「死んだという」「死んだそうだ」という意味になるのだろうか。あるいは詠嘆的に「死んだのだなあ」という意で読んでもいいのかもしれない。口語で「死んだひとの画集」と表現するよりも、感情の襞が生じてくる。こういうところに作者の細やかな意図が残されていて、読者も丁寧に読んでいこうという気持ちになる。言葉の細部によって、作者と読者との対話は起動していくのである。
 この歌でもう一つ重要なのは「よろはれて」という言葉だと思う。「よろふ」という言葉は、近代短歌の中で好んで使われてきた感があり、
  くろぐろと命を甲(よろ)ふ船虫の群れ求食(あさ)るかも朝のひかりに
                            土屋文明『ふゆくさ』

などを思い出す。弱いものが必死に生を守ろうとする痛ましさ。それは、「よろふ」という言葉を通して、門脇の歌にも遺伝している。
 短歌は長い歴史をもつ詩型なので、なにげない言葉にも、いくつもの先例が存在することが多い。文語で歌を作るということは、過去の歌を踏まえたり、あるときはあえて裏切ったりしながら、自分の表現を生み出していくことにつながっている。
 もちろん口語であっても、言葉の歴史を生かしてゆく表現は可能だろう。ただ、口語だと、いま目の前にある言葉だけを使って作ってしまうことになりやすい。口語短歌では、その危うさをつねに認識しておくことが大切なのだ。

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