短歌時評

短歌の「現代」を問い続けるために / 濱松 哲朗

2019年12月号

 二〇一九年を振り返ってみて、これほどまでに目に見える形で分断が露呈した年は過去にあっただろうかという思いを禁じ得ないでいる。それらはけして、短歌や文芸の世界の中だけで完結する文学的(?)な物事ではなく、日々の暮らしや現実社会における世俗的(?)な出来事でもない(そもそも文学と世俗を対比させるのがナンセンスだ)。誰もが当事者としてその場に晒されうるものであり、だからこそ問題の深部には、私たちを巻き込もうとするさまざまな構造の、隠された意図が見え隠れしている。
 二年間この時評を担当するにあたって心掛けたのは、限られた字数の中で、構造の問題を如何にして取り上げるかということだった。早い話が、私たちは日頃、歌を詠み、歌を読む時に、そもそも何を前提とし、何に影響され、依拠した上で思考しているのかを、書いておく必要があると考えたのだ。構造についての概念的な話がひっきりなしに続き、「そもそも」を突きつけるこの時評に対しては、難解だ、歌の話\\\をしてくれ、といった批判も多かった。だが、去年も書いたように、歌の話をする手前で互いの論理や前提が噛み合っていないケースが近年目に見えて多くなっているように思う。歌を通じて繋がっている、分かり合える、などと悠長なことを言う人が時々いるが、例えば去年の「基本的歌権」の話題などは、読みというプロセスに対する認識の前提が歌会という場面においても一様には捉え切れなくなっていることの証左ではないか。もし、これまで考えたこともないことを書いてあるから難解だと言うのであればナンセンス極まりないし(現在ようやく表面化しつつあることを書いているのだから当たり前だ)、言葉の意味が分からないと言うのなら辞書を引くなり資料を検索するなりして調べれば良い。自力で考えることを放棄し、分かりやすいものを通じて分かった気になることが一番危険であるし、それこそ多数派(マジョリティ)と不均衡(ヒエラルキー)を生み出す構造の思う壺だ。それを読めば全部分かるなどと気安く分かりやすさを吹聴する書き手の方が余程、読者を愚鈍化していると思うのだが、どうか。
 今、愚鈍化、と書いた。この「愚鈍化(abrutissement)」という語は、ランシエールの『無知な教師 知性の解放について』(一九八七年、邦訳は二〇一一年、梶田裕・堀容子訳、法政大学出版局)で次のように用いられていた。「一つの知性がもう一つの知性に従わされるところに愚鈍化があるのだ」、「教えたり習得したりする行為には二つの意志と二つの知性がある。それらが一致していることを愚鈍化\\\と呼ぶ」――。多様性を阻もうとする画一化の動きについて、ここまでひと言で片づけた\\\\言葉は他に無いだろう。思うに「分断」として語られる現象のほとんどは、分断状況にある一方ないし両方が相手方を自陣の論理に屈服させ、愚鈍化しようとして起きているのではないか。
 更に、こうした愚鈍化の流れに多数決の論理が加勢すれば、個々人の意見などは容易に無かったことにされてしまう。多様性とは、今目の前にある現象のみを対象にするものではなく、未来においても保たれてしかるべき指標かつ実践であるはずだ。だが、みずからの主張を多面的に複眼的に捉え直し、構造の生み出す不均衡に立ち向かう姿勢は、今日においても困難であると言わざるを得ない。一度知ってしまったら、無知でいられた平穏無事な地点\\\\\\\\\\\\\\には後戻りできない、なんてことをしてくれたのだ、という非難すら飛んでくる。
 そんな時代に、私たちは短歌という一詩型を通して、表現者、言葉を扱い文学に携わる者として、否応なしに関わることを迫られている。
 例えば、二〇二二年度から施行される新学習指導要領から高等学校の国語教育に導入される「論理国語」や二〇二一年度入試から実施予定の大学入学共通テストの記述式の設問などに対しては、論理的・実用的な文章を取り扱う一方で従来の文学的文章の読解を軽視し、大学改革に見られた実学偏重の流れをより強固なものにするのではといった批判が既に多く見られている。現代歌人協会と日本歌人クラブも五月十日付で「高校新学習指導要領・大学入学共通テストについての声明」を発表し、「高校教育では、生徒たちが心の自由を保ち、創造力を養ってこれから社会人として生きる力を身につけることがたいせつであり」、「この問題は、歌人に限らず、また文芸家に限らず、広く日本語を使い、日本文化を土壌とする社会全体の問題、これからの社会を実り豊かなものにしたいと考える日本人全体の問題と考えます」と記している。
 だが、国語教育、特に古典(古文・漢文)に対する不要論は根強い。二〇一九年一月十四日に明星大学日本文化学科で開催されたシンポジウムをまとめた『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(勝又基編、文学通信、二〇一九年)に収められた古典否定論者の見解を読んだ時、筆者は大いにショックを受けた。曰く、高等教育の出資者は「国とご家族」であるから、GDPや国際競争力を通じて教育の成果を還元しなければならない、国際競争に勝ち抜くためには企画書や発表や議論の能力を磨いた方が「短歌とか読めるよりもいいんじゃないのか」(この部分を書店で立ち読みして冗談抜きに膝から崩れ落ちた)、文化や芸術としての古典の意義や面白さは分かるが、必須科目である必要は無いし、知識として重視するのであれば現代語訳で構わないのではないか、云々――。かつて永田和宏は『近代秀歌』(岩波新書、二〇一三年)で「それを知らなくとも今の世界で生きてゆくことはできる。しかし、知っているのと知らないのとでは、現実の世界を感受する豊かさにおいて圧倒的な違いがあることは言うまでもない」と記したが、既に状況は「言うまでもない」わけではなくなりつつある。こうした不要論が目の前に突きつけられた時、短歌に携わる私たちは果たして太刀打ちできるのだろうか。
 直近では、「歌壇」十月号と十一月号の時評でも国語教育の話題は取り上げられたが、十月号の斉藤斎藤と十一月号の飯田彩乃とでは異なる見解が見られて、とても興味深かった。十一月号の時評で飯田は「そもそも実用とは、役に立つとは一体どういうことだろうか」と問うた上で、「「役に立つ」ことが求められる背景には、社会の構成員として「他者の役に立たねば価値がない」という無言の圧力のようなメッセージが見え隠れする」と書いている。「その人が生きていくために何がいつどんな役に立つのかは、誰にも、当人にすらもわからないはずだ」、「教育の場は、目先の利益を追求するのではなく、自分自身にとって真に「役に立つ」ものを見つける、可能性を拡げる場であってほしい」とする飯田の主張には、実益偏重かつ労働者養成機関と化しつつある現状への憂慮が含まれている。
 一方、十月号の斉藤斎藤はかなり悲観的だ。精神医療の世界においても「心」の価値が下落し、「いまの精神医療は、この苦悩に内面的に向き合うのではなく、そもそもの苦悩の種を減らそうとする」傾向にあると述べた上で、今なお国語教育で用いられている「山月記」や「舞姫」といった文学作品が「エリートである主人公が、共同体の画一的な価値観になじみきれず、社会か反社会かの二者択一を迫られ、社会環境を調整しようとはせずに、個人の内面でひたすら苦悩した末、発狂したりさせたりするお話」であることが現代の実情とのズレを生んでいるのではないかと指摘する。更に、「心の価値とともに、文学の価値も下落した今、お薬や環境調整で軽減できるわたしの悲しみに、なんの意味があるのだろう。わたしの連作の行間が、行間を読めるひとの心を震わせ、行間を読めないひとの心を震わせない、予定調和になんの意味があるのだろう」と、「文学国語の敗北」を嚙みしめて時評を締めくくっている。
 実は、斉藤のように、現代の価値基準の変化に国語教育で扱われる文学作品が追いついていないとする見解は、古典否定論者の中にも見られる。現代のPC(ポリティカル・コレクトネス)に照らし合わせてみれば、過去の作品が書かれた時点で当然視されていた差別や偏見を、国語の教材を通じて青年期の生徒に蔓延させているのではないか、という類の主張である。だが、そもそも作品を読解することと、作中の表現や人物に模範的道徳を求めることは別の位相の話だ。作品に書かれた「わたしの悲しみ」の「意味」を、作品を通じて読み解くのはあくまで読者であって作者ではないし、価値観や倫理観を作中の主体や作者その人と一致させなければ正しい\\\読解ができないとするのは誤りだ。仮に先天的に言外の意図を汲み取り難い人がいても、自分自身の「読み」が尊重された上で、他者の「読み」や作品のコンテクストへの理解を深められるアクチュアルな「読み」の場を用意することは不可能ではないはずだ。そしてそれこそが、例えば国語教育であったり、歌会であったりするのではないだろうか。
 古典否定論に触れて筆者が思い出したのは、昨年四月号の拙稿でも触れた、文語や旧仮名遣いに対する「言葉のコスプレ」論争だ。この時の山田航の不用意な論理については既に批判を済ませているので繰り返さないが、こうしてみると、何かを不要と言って斥けようと主張する側の論理には共通して、現状に対する画一的な認識が含まれていると言えるのではないか。たしかに、山田の主張は短歌における「現代」の現われ方を問うものとして意義のあるものだったし、文語や旧仮名遣いであることが現実社会においては圧倒的にマイノリティであることも、より広く読者を獲得しようとする際の障害になり得ることも理解はできる。だが、文学作品としての短歌は、コンテンツとしての受容を容易にすることのみを目論んで作られるべきであるとは到底思えないし、文語や旧仮名遣いを単に現代社会にそぐわないもの、容易な理解\\\\\を阻む面倒なものとして片づけてしまうのは、表現の多様性を踏みにじるものであり、論外だ。口語と文語、新旧の仮名遣いは対立するものとしてではなく、現代における表現技法の多様性の中で把握されるべきものではないだろうか。一方を称揚し一方を貶めるのは、表現そのものにナンセンスな画一化を及ぼしかねない。
 その一方で、文学に限らず、あらゆる表現がコンテンツとして市場に晒され、消費されていく現状もまた、紛れもない事実である。もはや日本社会全体が、分かりやすく口当たりの良いものばかりに流されて、読解や鑑賞といった道筋そのものを面倒事\\\として忌避しようと目論んでいると言っても過言ではないだろう。今年、あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれ、文化庁からの補助金の交付すら取りやめになった出来事を、いま一度思い出してほしい。「現代短歌」十一月号の時評で川野芽生は「言うまでもなく、これは公権力による検閲であり、時の政権の(極右的な)歴史認識にそぐわない表現への弾圧であると言うほかない」と記した上で、「公権力による弾圧も、「お上」の意にそぐわないと思われる表現を一般市民が「忖度」して潰しにかかる行為も、この先更に増えていくばかりなのかもしれない」と憂慮している。
 右の引用の、「検閲」や「弾圧」や「お上」という言葉を他人事\\\だと思って流した人は、もう一度考え直してみてほしい。どうして与えられた正しさ\\\\\\\\に唯々諾々と従うのか。なぜ多様性を面倒くさがるかのようにして、既存の大きな声\\\\を正しさの地平に押し上げようとする\\\\\\\\\のか。ここにある問題は全て、既にある構造によってもたらされた愚鈍化の結果としての分断\\が、根本原因ではないか。
 批判と非難は別物である。前者は読解や鑑賞の地平における平等な対話を前提とするが、後者はあくまで個人的な好悪や快不快といった分かりやすいもの\\\\\\\\を不平等に相手へ押し付けようとする。平等を前提としないもの同士に対話は成立しないだろうし、分断という構造\\\\\\\からの解放も望めない。
 念のために書いておくが、多様性は「何でもあり」と同義では決してない。ヘイトスピーチや女性表象(小宮友根「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」「世界」二〇一九年五月号参照、最近では赤十字の献血関連のポスターが問題となった)が批判の対象となるのは、その表現に含まれた民族や性別に由来する差別や不均衡によってあるべき多様性を排斥し、表現を通じて無反省なままに画一化の欲望\\を拡散しているからだ。こうした画一化の標榜は言うなれば民主主義を脅かそうとする意志の表明であり、結果的に表現の自由そのものを揺るがしかねない。件の時評を、川野芽生は「表現の自由の侵害はあらゆるところで起きていて、私たちはいつでも当事者なのだ」と締め括っているが、まさにその通りである。この現実社会と接続している限り、短歌という詩型に携わる私たちも、そこにある構造の暴力と無関係ではいられない。無自覚や愚鈍化の罠はあちこちに潜んでいるのだ。そして、八月号の時評で記したように、平等な対話を待たれているのに、既存の構造に固執した結果として権威的な振舞いが加速した事例が短歌の世界においても見られたことを、決して忘れてはならないと思う。
 そして私たちは、短歌の定型それ自体が既存の構造\\\\\である、という事実とも向き合わなければならないだろう。「短歌」十月号で小原奈実は、「短歌定型は、言葉が個人の自由になりえないことの恩恵と弊害とを真正面から受ける構造をしているのだと思う」と書く。三十一音に「込められる情報量は少ない」ことを理由に「「言わなくてもわかる」要素を極力省くこと」は「社会的・文化的通念の内在化」に繋がり、かといって「マイノリティ性を書き加える」と「音数の余裕が狭まるだけでなく、その部分が蛍光ペンを引かれたように浮かび上がり、歌の読みを大きく規定してしまう」のだ。「短歌定型の短さに留まりながら、言葉に内在する社会的権力関係への依存度を低めることはできるだろうか」という小原の問いを、筆者は次のように読み換えてみたいと思う。短歌という詩型は、いかにして現代と向き合えるのだろうか――。
 かつて前田透は「「現代の短歌」ではなくて、短歌の「現代」が問題なのだ」、「現代風な事象を追い求めることや、表現の非定型化ということ自体のうちに現代意識があるのではなく作者が現代を感ずる態度に現代意識を云うべきである」と記した(「いかに現代を詠うか」「短歌公論」一九七〇年十月号、『短歌と表現』所収)。私たちは誰もがみな、この「現代」という時代の当事者なのである。だからこそ、批判的に問い続ける姿勢を諦めてしまってはいけないのだ。

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