青蟬通信

二〇一九年の歌集を振り返る / 吉川 宏志

2019年12月号

 今年ももう歳末が近くなった。改元の年だったからか、特に多くの歌集が出た印象がある。一首評の形でいくつか紹介していきたい。
  死のきはの猫が嚙みたる指の傷四十日経てあはれなほりぬ
                              小池光『梨の花』
 飼い猫の死を詠む。病の苦しみのあまり、思わず嚙みついたのだろう。指の傷は痛むが、それ以上の苦しみを猫は味わっていたのだと思い、幾度も死を回想することになる。生きている者の傷は治っていくが、死んだ者は二度と帰らない。「四十日」という具体的な数字が印象的である。
  宇宙から見れば今死ぬ吾の手が今死ぬ母の手を握りをり
                              川野里子『歓待』
 宇宙のスケールから見れば、人間の生は一瞬である。今死んでゆく母も、いつか死ぬ自分も、ほんのわずかな時間差しかない。それでも、手を握りしめることで、「今」を確かめようとする。理知的な発想だが、「今死ぬ」の繰り返しに、どうしようもない悲しみと虚しさがあふれている。
  米軍の作りしフェンスが空の青海のあを区切りわたしを区切る
                            大口玲子『ザベリオ』
 沖縄の基地を歌う。「白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の本歌取りで、牧水の歌は空と海が溶け合うような世界を描いているが、それとは全く逆で、すべてを分断していく軍の酷薄さが伝わってくる。結句の「わたしを区切る」が、考えさせられる表現。在日米軍の存在を思うとき、自分の思想や心情も、切り裂かれるような感じがする。
  二カ月の後には雪の下ならん父母の墓石に深く頭(ず)を垂る
                              三井修『海泡石』
 故郷の能登に帰ったときの歌。今はまだ晩秋だが、もうすぐ墓地は雪に埋もれてしまうことを考える。しかし、その風景を自分が見ることはない。幻の雪を目に浮かべるのみである。そこに、故郷を去った者の切なさと懐かしさが籠もっている。
  椰子の実はごんごんと卓に並べられそを飲みながら商談進む
                          梅原ひろみ『開けば入る』
 ベトナムで、日本の工具を販売するという仕事を中心に詠んだ第一歌集で、風物が珍しく、臨場感あふれる一冊だった。この歌も、上の句の「ごんごん」がよく、南国の大らかな雰囲気の中で、ビジネスを進めてゆく気迫が伝わってくる。「五行山のふもとに石材彫刻の工房ひろがり工具売らねば」といった歌もおもしろい。
  雄滝(おんたき)を落ちゆくみずが満たされてまた雌滝(めんたき)のみずとなるまで
                            松村正直『紫のひと』
 水の動きだけを歌っているが、大きな風景が、読者の心に広がっていくような歌である。「みずとなるまで」という終わらない感じの結句が、優れた効果を上げている。水が循環しているような、永遠的な印象が生まれるのである。「おんたき」「めんたき」の音の響きもよく、男女の関係をやはりイメージさせられる。
  引用をすべき一首がうかびきて加湿器の噴く音をやさしむ
                               篠弘『司会者』
 短歌の評論を書いたことがある人なら、共鳴する歌だろう。引用歌が決まれば、文章の方向性はおのずと見えてくる。無機質な加湿器の音は、ずっと鳴っていたはずだが、心に余裕が生まれたため、優しく聞こえてきたのだ(「やさしむ」には「恥ずかしくなる」などの意味もあるが、ここでは「優しく感じられる」の意だろう)。
  ティーバッグ降ろした皿は濡れはじめいずれ渡って行く鳥のよう
                            山階基『風にあたる』
 日常の中から、繊細な一瞬をつかみ出した歌が、若い世代の作品に多かったように思う。そして、この歌のように、やがて失われてしまう哀愁を滲ませていることも多いのである。この一首は、濡れたティーバッグと、水鳥のイメージの重なりが美しい。そして「降ろした」という動詞が効いており、静かな手の動きが見えてくるのである。
  青鷺、とあなたが指してくれた日の川のひかりを覚えていたい
                     笠木拓『はるかカーテンコールまで』
などの歌とも共通性を感じ、興味深いのだが、もう紙面が尽きた。

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