八角堂便り

真剣勝負 / 真中 朋久

2019年11月号

 もうほとんど比喩でしか使われていない言葉というものはあるもので、たとえば「真剣」も、そういうものの一つだろう。近世以前なら「真剣勝負」という剣術の試合もあっただろうけれど、そういうことを今やれば「凶器準備集合」になる。明治二十二年制定の「決闘罪」なる法律は、驚くことにいまも有効であるらしい。
 比喩というよりも、むしろ慣用句なのだが、「真剣」が出てきて面白いのは、たとえばこういう作品。
  薄うすと秋陽の照れる萱原(かやはら)に顔真剣な雄雉と会ふ
                               河野裕子『家』
  真剣に嘘をつくところ見たるより信ずるに足る人と思ひき
                    安立スハル『「この梅生ずべし」以後』
  かなり真剣に倒産ばんざい と思うことある 男は女のもとに在るべし
                        なみの亜子『バード・バード』

 動物はだいたい真顔。どうにもならない場面で、何かを守るために必死で嘘をつくというのは、許せる場面もあるかもしれない。自分の感じたことを対象化するとき、その一面を「かなり真剣に」などと言ってみる。
  真剣勝負と言ふ人のありてそれほどのものでもなからうと学会にゐる
                          永田和宏『夏・二〇一〇』

 永田研究室に比べれば……か、あるいは短歌と研究の両方の第一線にいる永田さん自身に比べれば……なのか。おそらく、そういうことではなくて「真剣勝負」と自ら言うひとの、主観的に「真剣」であることに酔っているような様子を目の当たりにしたのだろう。
 何ごとも真剣に向き合うのは大切なことだ。大切なことではあるが、真剣というのは、かなり主観的で、精神論の掛け声になりがちなことには注意を要するのではないかと思っている。
 歌会であったり、投稿であったり、そういうところで熱心な人が、「俺の歌(批評)を貶すのは許せん」とか、「こんなに真剣につくった歌が没になるなんて」と、後々までぼやく。そういうのは、真剣というのとはちょっと違うのだ。
 真剣というのは、互いの持つものが真剣であるごとく、全身の感覚を鋭敏にすること。合理的な身のこなしができるように身体をつくること。短歌ならば、細部に気を配りつつ一首を読み味わうことであり、語彙力や描写力などの基礎のうえで無理なく、あるいはその限界を意識しつつ実験することだろう。
 身体を壊すまで鍛錬しろというのではない。いわんや死んで来いというのではないのだ。
 とりあえず、歌会も投稿も、道場で防具をつけて竹刀を構えるような感じでよいのではないか。それを真剣でないと言うのは、剣道の人に失礼なのだ。

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