短歌時評

手の上の「客観」 / 濱松 哲朗

2019年11月号

 今年の現代短歌評論賞は、土井礼一郎「なぜイオンモールを詠むのか――岡野大嗣『サイレンと犀』にみる人間性護持の闘い」に決まった。郊外型の巨大商業施設である「イオンモール」の全国展開に合わせるようにして、短歌においても近年「イオンモール」が「実にさまざまな詠われ方をしている」と指摘する土井は、特筆すべき例として岡野大嗣を取り上げ、没個性的なものの集合体とされる「イオンモール」やさまざまな商号が、むしろそれらに囲まれることで「包み込まれた内面が強調される」という逆説的効果を読み解く。ゲスト選考委員の今井恵子が土井の歌の読みに「記号的というか、単語を背景に読みを深めていく」傾向を指摘しているが、残念ながら、この「表現の象徴を読み解いてゆく」多面的な読みの記述が、「イオンモール」と「人間性」の間の逆説的関係を語る上では少々話を分かりにくくしているように筆者には見えた。だがそれでも、イオンモールを「唯一無二の人間性、言い換えれば個性を守り続ける要塞なのである」と捉える視点は勇み足でありつつも鮮やかで、受賞作に相応しい。
 むしろ考えさせられたのは選考座談会の方だ。佐佐木幸綱は「ほとんど知られていない作品、あるいは客観的にいかがかと思う作品、そういう引用歌が多かった」、「客観性を持った引用歌が短歌評論には大事である、評論の客観性を保証するのは引用歌の質である」と述べて、例として岡野大嗣を挙げたことに疑問を投げかける。「自分に都合のいい作品を引用したり、また、それを鑑賞するには鑑賞力が問われる」(大島史洋)や「やはり客観的な説得力というのはまず、どんな引用歌を選ぶかということが一つ大切です」(三枝昂之)という発言も同様の指摘だ。また、篠弘は、応募原稿時点では各歌集の刊行年月の記載が無かったことに触れて、「歴史的位置づけ」が「まるでもう誰もがわかってることとして書いている」、「客観的なデータは抜きにして、思い入れで論を展開している印象があって、達者に書いているけれども、どれだけの説得力があるのか」と苦言を呈した(刊行年月については雑誌掲載の時点で加筆が施された)。
 一見もっともそうだが、しかし妙な言い分だ。何よりこの評論賞そして歌壇は、短歌評論の先達である彼ら選考委員が「客観的」な引用ではないと言えばそうなってしまうのだから。書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」の中でも現時点で五刷までいき、それだけの読者が存在する岡野作品の存在を無視することはもう既に「客観的」とは言えない。応募評論について先行文献への調査の甘さを指摘する一方で、岡野大嗣については自分たちの手に届く範囲の「現代」に入っていなかった、見えていなかったと平然と決め込む。そろそろ先行世代も、資料へのアクセスそのものが世代や環境ごとで分断され、客観性そのものが揺らぎつつある現状を認識した方が良い。そもそも今年の課題は「現代社会と短歌」だった。現代の短歌とは「客観的」評価が定まったものではなく、今なお発生し続ける現象であり、評論もまた、それらの現象を書き残し論じる役割を担うことになるのではないか。
 いみじくも、「歌壇」十月号の特集「平成の事件と短歌」の総論で三枝昂之は「短歌は前衛短歌のような表現の極北を求める詩であり、日々の呼吸や体温を反映した人々の生活詩でもある」と書いた。発生し続ける現象に寄り添うであろう「生活詩」は「客観的」評価とは程遠いはずなのに、歌人は何故、直近の時事詠を論じ、事あるごとに『昭和萬葉集』を取り上げるのか。こうしたダブルスタンダードも、所詮は誰かの手の上で都合よく転がされた「客観」の産物でしかないのではないか。

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