青蟬通信

落合直文の歌の新しさ / 吉川 宏志

2019年11月号

 九月に宮城県の気仙沼市に行き、落合直文の短歌について話をした。直文は文久元年(一八六一年)に気仙沼で生まれた。東京大学に進学し、国文学の教師となる。明治二十六年、初めての短歌結社とも言われる「浅香社」を創設。そこから与謝野鉄幹や尾上柴舟など、多くの有力歌人が輩出した。明治三十六年に亡くなった後、『萩之家歌集』が刊行された。
 大まかに書くとこんな経歴で、「近代短歌の父」と言ってもいい人物なのである。ただ、知名度はそれほど高くない。一つの理由として、直文が作詞した「桜井の訣別」(楠木正成の死を覚悟した出陣をうたった歌)が、戦時中に「忠君愛国」の鑑かがみとしてよく歌われたため、ナショナリストとしてのイメージが強くなってしまったことがあるだろう。直文の代表歌としてよく挙げられるのが、
  緋縅(ひおどし)のよろひをつけて太刀はきて見ばやとぞおもふ山ざくら花
なので、古色蒼然とした印象をもたれるのもしかたがない。
 しかし『萩之家歌集』をじっくり読んでみると、別の姿が見えてくるのである。
  砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず
 この一首を見てびっくりしてしまった。砂浜に恋の思いを書いたけれど波が消していく、というのは歌謡曲の歌詞でよく見られるものだが(たしかサザンオールスターズにもあったはず)、その原型と言ってもいい歌である。前田透の『落合直文』によれば、「恋人」という言葉が歌に使われたのも、これが初めてであったらしい。当時としては斬新な表現だったのだ(厚化粧みたいだ、という批判もあったらしいが)。
  恋のために身は痩せやせてわが背子(せこ)がおくりし指輪ゆるくなりたり
という歌もあり、これは渡哲也が歌った『くちなしの花』を思い出させる。あれは「今では指輪も回るほど痩せてやつれた……」だった。
 今から百二十年前に、ポピュラー性の高い恋歌を生み出していたのは不思議な感じもする。直文は婚約者を急病で失っており、それが切ない恋心の源泉だったのかもしれない。また次のような歌もある。
  夕ぐれを何とはなしに野にいでて何とはなしに家にかへりぬ
 これは石川啄木の、
  何となく汽車に乗りたく思ひしのみ/汽車を下りしに/ゆくところなし
                                 『一握の砂』

を連想させる。「何となく」という目的の定まらない感じ。一日が無為のままに終わっていく寂しさ。そういう感覚を、直文は啄木より前に言葉で捉えていたのである。
  病む人の戸口にかけし乳入(ちちいれ)を夜すがら鳴らす木がらしの風
 こんな歌もおもしろく感じる。明治二十年ごろに、牛乳を瓶で配達する事業が始まった。それを入れる箱を詠んでいるのだ。当時の新しい事物に注目し、情景が目に浮かぶように歌っている。このころは牛乳は病人が飲むもの、というイメージがあったようで、哀感の漂う一首となっている。写実主義の嚆矢となるような歌であろう。
  父と母といづれがよきと子に問へば父よといひて母をかへりみぬ
 明治時代は家父長制であったが、そんな中でも、ほんとうは母が好きな幼子のほほえましい姿が描かれていることを貴重だと思う。
 紙幅が少なくてあまり引用できないが、落合直文の作品の中には新しい芽がいくつも見られ、それを後代の歌人が育てていったことで、多様な短歌が花開いた印象を受けるのである。直文は四十三歳で亡くなっているので、自分で完成させることはできなかったが、さまざまなアイディアが『萩之家歌集』の中に散らばっている。落合直文は、もっと再評価すべき歌人なのではないか。
 落合直文生誕百五十年は、東日本大震災の年で、あまり話題にならなかったのも残念だった。直文の生家である煙雲館は、気仙沼市にまだ残っている。その庭先まで津波が押し寄せたが無事だった。四百年前に造られた庭も健在で、糸杉などの木が、海からの風を受けてそよいでいた。

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