青蟬通信

短連作・煉乳 / 吉川 宏志

2019年10月号

 「塔」二〇一六年二月号で、「短連作」の特集をした。おぼえているでしょうか。
 「短連作」というのは、たぶん私の造語で、五首くらいの短歌で一つの世界を生み出している、題名付きの一連を指す。歌集では、優れた短連作がいくつか置かれていることにより、万華鏡のような印象が生み出されることが多い(平凡な比喩ですが)。
 花山多佳子さんの新しい歌集『鳥影』には、おもしろい短連作がいくつもあった。今回はその中から「煉乳」五首を読んでみる。
   煉乳
① 昭和の子なれどもわれは練乳を苺にかけた記憶のあらず
② またの名を練乳といふを知らざりきコンデンスミルクにパンひたしつつ
③ コンデンスミルクに触るる缶切りの刃をあやぶめり子どものわれは
④ とりかへしつかざるごとくコンデンスミルクは垂るる缶の穴より
⑤ 大正十五年秋 道ばたに捨てられありし煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら
   *煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる
                            齋藤茂吉『ともしび』
 ①を読むと、「煉乳」は「練乳」の誤植ではないの、とドキッとするのだが、これで正しいのであった。①・②は、導入部といってもいい分かりやすい歌である。歌集では、こうした明快な歌が挟まるほうが、一冊として読みやすくなることがある。①には、他の家と比べて、苺に練乳をかけるというちょっとした贅沢もできなかった子ども時代の悲しみも含まれているかもしれない。
 ③は、繊細な子ども時代の感覚を蘇らせている歌。たしか、注ぎ穴と空気穴をあけるのだった。そのときのズブッと缶切りの刃がめりこむ感触は、私もおぼえている気がする。いや、そうではなくて、歌を読むことによって、その時の感覚が、もう一度つくり出されるのだろう。
 ④のミルクが缶の穴から細く垂れている情景も、とても懐かしいものである。そこに「とりかへしつかざるごとく」という、やや大仰な比喩が組み合わせられているところもおもしろい。缶の穴から出たミルクはもう元に戻れないわけで、そこにも小さな不可逆性はある。
 ⑤は斎藤茂吉に「煉乳の鑵」の歌があることに触発された歌。九十年くらい昔からコンデンスミルクが日本にあったことに驚く。題名の「煉乳」は、こちらを指していた。
 さて、ここで問題ですが、茂吉の歌にある、空き缶を怖れている「君」とは誰でしょう。
 答えは芥川龍之介。茂吉は、土屋文明とともに、神奈川県の鵠沼海岸に転居していた芥川を訪ねたのだった。ちなみに、この秋の日の散策の様子は、芥川龍之介の「悠々荘」という小品にも描かれていて、今はネットでも読むことができる。茂吉はSさん、文明はT君として登場する。大きな空き家を覗いて、生理用品の缶を見つけるという場面もあるのだが、「煉乳の鑵」に関する描写はない。おそらく、空き缶のぎざぎざに芥川がおびえた一瞬を、茂吉は記憶していたのだろう。
 そして翌年の昭和二年に、芥川は服薬自殺を遂げ、茂吉は激しいショックを受けるのであった。
 花山さんの五首は、練乳という身近なものを通して、時間を自在に行き来している。そして全体には、時間の流れの「とりかへしつかざる」感じが漂っている。
 たった五首なので、いくつもの題材を扱うことはできない。そうではなくて、一つの物に集中して歌いつつ、時間を揺り動かすことが、短連作を成功させる鍵であるようだ。
 歌集の批評会がしばしば行われる。そこで短い時間で発言するとき、歌集全体を語るのは難しいし、漠然とした抽象的な話になりやすい。そんなときはむしろ、短連作に注目して、どのように歌が組み合わされているかを、丁寧に話したほうがいいのではないか。優れた短連作は、意外なくらい鮮やかに、作者の全体像を反映していることがある。

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