短歌時評

AIから遠く離れて / 濱松 哲朗 

2019年10月号

 「短歌研究」八月号の第二特集「歌人AI(人工知能歌人)の魅力」が示唆に富んでいて興味深い。機械音痴かつ理数系に明るくない筆者は、こういう話題になるといつもは尻込みしてしまうのだが、この座談会は面白くて一気に読んでしまった。なお、この記事の抄録版はウェブサイト「現代ビジネス」や、その他記事配信サイト経由でも読むことができる(六月号の時評で取り上げた品田悦一の記事の件といい、ここ最近の「短歌研究」は講談社という大手メディアの関連企業である強みを生かした新たな読者へのアプローチが周到で、使えるものは何でも使おうというその心意気がむしろ清々しくて良い)。
 このAIは短歌研究社のホームページで期間限定公開されていたので、実際に体験した人もいるかもしれない。機能としては、初句として任意の語句を入力すると、学習したデータ(与謝野晶子や原阿佐緒といった「近代女性歌人」の作品約五〇〇〇首!)に基づいてAIが二句以下を続け、ものの十数秒で一首を完成させる、というものである。ただ、AIが作った歌として記事上に掲載された二十首については、人為的に入力された初句とAIが続けた二句以下とのズレが面白さの大半を決めてしまっているように見える。初句として与えられた単語を生かし切れず、別に作った歌と同じ語句を用いてしまう場合もあった。AIのコーチ役として開発に協力した野口あや子は、AIが「結句に至るまでに帳尻を合わせようとしたり、落とし所を見つけようとしたりする」のを見て「人間の思いはそうじゃない、もっと反転したり矛盾があったりするのだと思うことがあ」ると述べ、「現時点では、AIは、微妙な心理や、噓や、アイロニーを理解できるところまではいっていない」と指摘する。開発者側である中辻真(NTTレゾナント)も「創造的な文章作成は、現在の人工知能技術ではまだ未解決な領域であ」ると述べ、短歌生成をAIに学習させる難しさとして、囲碁や将棋と違って「正解、不正解が明確に分かれている大量のデータ」があるわけではない点を挙げていた。AIについて話そうとすればするほど、何をもって「人間」的とされるのか、歌を作るとは「人間」においてどういう行為であるか、といった「人間」に関する様々な問いが跳ね返り、交錯するのである。
 作品における「人間」的なものを決定づけているのは何であろうか。恐らくそれは作風や文体のことではないかと筆者は考える。今回、AIにはあらかじめ「恋愛」が歌のテーマとして与えられていた上に、サンプリングした晶子らの歌も比較的若い時期のものだったこともあって、歌にある種の傾向を見て取ることは可能だが、残念ながら、一貫した作風や文体を見出すまでには至っていない。
 では、何をもって一貫したものと見なすのか。「短歌研究」の座談会では作者のバックグラウンドや物語、あるいは経験や知識が「人間」的要素として語られていた。更にここへ、「現代短歌」九月号で永井祐が土屋文明の作品に「歌の世界の円環を閉じることを妨げる抵抗体」を見出し、「土屋文明というパースペクティブから見れば世界は不調和でとりとめもないものだったのだろうと思う」と書いていたのを援用してみることにする。パースペクティブ(視点の取り方)は個に属するものだが、必ずしも作者の実人生には還元し切れない特異性のひとつだと言えるだろう。
 作風や文体とは、「作者」に紐づけされる形で認識された、作品における何らかの一貫した特異性の集積のことではないか。――この問いはAIよりもむしろ、私たち「人間」自身にまず向けられるべきだと筆者は思う。

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