八角堂便り

千住の森鷗外 / 栗木 京子

2019年10月号

 拙宅の最寄り駅は、都内足立区の北千住。この地は森鷗外にゆかりの深い場所である。明治十四年、父の森静男がここで橘井堂(きっせいどう)医院を開業したからである。このとき鷗外は東京大学医学部を卒業したばかり。陸軍軍医副となって、橘井堂から陸軍病院に通った。明治十七年のドイツ留学までこの生活が続いたので、四年ほどを千住で過ごしたことになる。
 処女小説「舞姫」を「国民之友」に発表した際に彼は初めて「鷗外」というペンネームを用いるのだが、その由来については「友人の雅号を使った」「漢詩からとった」などの説とともに「隅田川(橘井堂から近い)に在る鷗の渡しからとった」という説もあるようだ。
 短篇小説「カズイスチカ」(ラテン語で臨床記録といった意味)には、折々に父の代診をしながら橘井堂で暮らしていた若き日の思いが綴られている。陸軍軍医総監まで昇りつめた鷗外には、管理者あるいは研究者というイメージが強いが、町医者の一人として患者と接する体験を描いた「カズイスチカ」を読むと、彼の新しい一面を垣間見ることができる。
 橘井堂医院は今は残っておらず、跡地には都税事務所が建っていた。敷地がゆったりしていたので、それなりに往時の鷗外一家を偲ぶよすがになっていた。だが数年前に都税事務所は取り壊され、三十階建てのマンションが建設中である。何だか寂しくて仕方がない。
 今年の二月に今野寿美氏が刊行したコレクション日本歌人選「森鷗外」(笠間書院)は丁寧な秀歌鑑賞はもとより、コラムや参考文献も充実している。とりわけ惹き込まれたのは、「剪刀か剃刀か」と題された考察であった。
  勅封(ちよくふう)の笋(たかんな)の皮切りほどく剪刀(かみそり)の音の寒きあかつき
                                  森 鷗外
 
 (表記は岩波版全集第十九巻に拠る)
 大正五年に陸軍を退いた鷗外は翌年に帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)となる。毎年秋に正倉院の曝涼のため奈良に滞在し「奈良五十首」を発表。掲出歌はそのうちの一首である。宝庫の扉に巻きつけられた笋(筍の皮)を切りほどく厳粛な場面が描かれているのだが、「剪刀」のルビに関して「かみそり」と「はさみ」の二通りが存在する。疑問を感じた今野氏は、勅使として「御開封の儀」を執り行なったことのある人物から話をうかがい、また儀式の写真を見ることもできた。その結果、切り離しの際に用いるのは「昔の花ばさみのような、指を通して握る柄が細く丸みを帯びたハサミ」であることが判明したのである。じつは私も以前から「剪刀」はハサミのほうが音が冴え冴えとしてふさわしいのに、と思っていた。ハサミと知ってすっきりしたのであった。
 ハサミがカミソリと読まれた経緯について、今野氏はさらに詳細な追跡をしており、大いに興味を掻き立てられた。

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