百葉箱

百葉箱2019年9月号 / 吉川 宏志

2019年9月号

  チェロの音は蜜蜂のうなりに似てゐると養蜂の日々語り出す人
                              小澤婦貴子

 小説の冒頭のような歌。老いた人なのだろう。「養蜂の日々」に何があったのか心ひかれる。
 
  鍼灸師になりたる息子の粘土の手十五のままに本棚にあり
                            萩尾マリ子

 鍼灸師は手を使う仕事。少年のころの手が残っているのが、何か不思議で、息子の時間へのしみじみとした思いが伝わる。
 
  母がはめたる記憶なきこと寂しめり 立爪ダイヤを再びしまふ
                              嶋寺洋子

 大切なあまり、ほとんど使わなかった指輪なのだろう。「立爪」が効いていて、慎ましかった母への心の痛みもあるように思う。
 
  振り続けていないとすぐに分離するドレッシングだ家族も夫婦も
                               王生令子

 比喩の新鮮さが命の一首。夫婦や家族に対する認識の冷静さに、はっとさせられる。
 
  黄緑の紫陽花どんどん白くなるどこまでいけば咲いたと言える
                              黒川しゆう

 白あじさいは、初めは黄緑色だが、純白になっていく。「咲く」とは違うありかたといえよう。着眼点がおもしろい。
 
  ほしいのは同志 手伝いではなくて妻に言われき小さき灯のした
                               神山倶生

 家事や育児を「手伝う」のではなくて、「同志」としてやってほしい、と妻に言われたのだろう。突き刺さる言葉だ。結句に、生活感としみじみとした思いが滲む。
 
  夏柑の固きを爪立て剥くときに昨日の諍い飛沫となれり
                           山田恵子

 夏柑のしぶきによって、自分の中にまだ怒りが残っていることに気づいた、という感じだろう。場面が鮮明に見えるのが良い。
 
  立ったまま両手を机へ置く人に「座ろうか」と言い会議始めつ
                              鈴木健示

 場面の切り取り方が上手く、ドラマの一シーンを見るような歌。苛立っている若手を、落ち着かせるような感じだ。
 
  花はみな花びらとなり落下せり重さ残さず薔薇は消えゆく
                            岩尾美加子

 花がなくなった後、ぽっかりと空間が残るような感覚を、工夫された言葉によって、印象的に描き出している。
 
  紫陽花とぼくの頭をすげ替えて君に気づかれない自信ある
                            太代祐一

 とてもシュールな発想だが、その根底に、「君」にまったく関心を持ってもらえない「ぼく」の自虐的な思いがある。結句の舌足らずな感じも、この歌では効果的。
 
  「死にたい」とツイートしてから消したひとがヤギの画像にいいねを付ける
                                  宮本背水

 インターネットの現状を、臨場感ある表現で描いている。「ヤギの画像」に、意外性がある。猫だと平凡になるのである。
 
  デパートが夢買うところでありし頃アドバルーンのひろげてた空
                               よしの公一

 上の句は、よく見る感想だが、下の句の空を「ひろげてた」で、生命感が宿った。 
 
  大阪の空を道路が覆いいて漏れくる光に釣りをする人
                          橋本チャク

 大阪の情景が目に見えるような歌。新しさと懐かしさの混じり合う空間を活写している。

ページトップへ