青蟬通信

〈読み〉と信憑 / 吉川 宏志

2019年8月号

 加藤典洋氏が五月に亡くなった。一九九七年に出た『敗戦後論』はよく読まれた一冊だった。栗木京子さんの『夏のうしろ』(二〇〇三年)に、
    加藤典洋『敗戦後論』
  八月の空縫ひあはせ飛ぶ鳥よ戦勝国に戦後はあらず
という一首があったことを思い出す。
 加藤は、当時の細川首相が、日本が侵略したアジアの国々に謝罪する一方、別の政治家が「南京事件はなかった」などと失言する状況を、「ジキル氏とハイド氏」に喩えた。その分裂を解決するには、加害者としての責任を認め、「汚れた」兵士を正しく弔うしかないと述べた。
 しかし現在、「ハイド氏」の面が、国を呑み込んでしまうような恐ろしさをおぼえる。戦争の罪を無かったことにして、しかも忘れようとする。そんな危うい方向に進んでいるのではないか。
 加藤典洋の著作で、もう一冊印象的だったのが、『テクストから遠く離れて』(二〇〇四年)だった。これは文学の〈読み〉の問題を徹底的に論じた本で、私はとても影響を受けたように思う。
 当時、「テクスト論」といって、作品と作者を切り離す〈読み〉が流行していた。ロラン・バルトの「作者の死」という言葉がよく用いられ、作者の意図とは無関係に、読者が自由に作品を解釈していいのだ、という主張が有力だった。
 これは短歌にも大きな関係がある。作者の人生を知らないと、深く読めない歌は、たしかに存在する。そんな歌を、「作品だけ」切り離して読むことは可能なのか。また、意味がわかりにくい歌を、読者が勝手に解釈して、評価するということはあり得るのか。これは現在でもときどき見聞きする事象である。
 加藤典洋の論考は多岐にわたっており、要約は難しいが、核心にあるのは次のようなアイディアだろう。
 作者が、どのような意図で、その作品を書いたのか。読者が真実を知ることはたしかに不可能である。しかし、すぐさま勝手に解釈するということにはならず、読者は「作者は○○という考えで、こう書いたのではないか」という形で、推測しながら読むことが自然である。
 そして、その推測が間違いないだろう、という確信が生じるとき、その作品に対する愛着のようなものも生まれてくる。
 目の前には存在しない作者の意図を想像することによって、本当の〈読み〉のおもしろさは生じてくる、というのだ。
 これは、歌会をイメージすると分かりやすい。歌会では基本的に作者名は隠されているし、作者の発言も禁じられている。それが「作者の死」ということなのだが、その状態から、「作者は、どういう意図でこんな表現をしたのだろう」という問いが生まれ、批評が始まっていく。
  これでいい 港に白い舟くずれ誰かがわたしになる秋の朝
                        大森静佳『てのひらを燃やす』
 この一首は、作者名なしの歌会で初めて出会った。意味が分からないという感想も最初はあったのだが、何百年後かに、自分が死んだ後の風景を、生まれ変わった自分が見ている状況なのではないか、という解釈が出てきた。長い時間が過ぎて白い舟は朽ちてしまったのだ、という裏付けが加わった。「これでいい」というのは、自分が死んだ後も流れていく時間を愛おしむ思いだろう、と推測がさらに広がる。
 このように、〈読み〉が確かなものになるにつれて、この歌の良さが、歌会全体に沁みとおるような状態になっていった。
「読みは、必ずや作者がこう書いているのは、かくかくのことを考えてのことではないだろうか、そうに違いない\\\\\\\、という作者の像をともなう信憑の形で、読者に現前するのである。」
という加藤の言葉を、私は実感的に受け止めることができる。
 歌を読むとき、「なんか信じられるなあ」「嘘ではないなあ」という感覚を持つことがある。そんな素朴な感覚の大切さを、加藤は切実に論じていたように思う。

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