八角堂便り

作者と読者の場の共有 / 永田 和宏

2019年8月号

 「塔」の六月号で田中律子さんが、『歌仙はすごい』について、とてもいい書評を書いてくれた。作り手の意図と、さらにその本のおもしろさを充分にくみ取ったもので、こういう書評をもらうと元気が出る。早速、共著者の辻原登と長谷川櫂にも送っておいたが、ここでは田中さんとはちょっと違った意図で、もう一度『歌仙はすごい』に触れてみたい。
 何人かから言われ続けていて未だ果たせていない約束に「読者論」がある。そろそろ腰を上げなくてはと、ある雑誌に連載の約束をしたところだが、歌仙の場でも〈読者〉というものを強く意識せざるを得ない場面が多かった。歌仙の場合は〈読者〉というよりは連衆と言うべきだが、言葉を誰に向かって投げるか、投げられた言葉にどのように反応するか、これはすぐれて読者論の領域である。
 はち巻がはち巻呼べる花の下   和
  永き日こそは宵寝で暮らす   登
 わが庵名利のほかは何でも可   櫂
  ほらまたそんな出まかせを言ふ 和
 幇間(たいこもち)扇子の裏で忍び恋  登
 たとえばこんなやり取りがある。詳述する余裕がないが、私のは花の座で、前句から漁師のはち巻を詠んだものである。それを受け辻原登が、蕪村の「遅き日のつもりで遠きむかし哉」を踏まえた一句を。「宵寝」という言葉への哀惜の思いでもあるという。それに、長谷川櫂が「名利のほかは」とえらく高尚な句をつけたのに、私が「ほらまたそんな」と茶々を入れたという展開である。「これはただならぬ険悪な雰囲気」と、幇間を出して、座を和ませようとしたのが最後の句。
 これは一例であるが、すべて前の人から投げられた言葉を受け、次に手渡すという形で句が続くのが歌仙である。
 しかし、これは歌仙にかぎらず、私たちが歌を読むという場合のメカニズムでもあるはずなのである。一首の歌をどう受け止めるか。その歌に、実際に歌で返さないまでも、どのように自らの反応を意識できるか。作者と読者も、実は一つの座を形成しているはずなのである。しかし、近年、とみにその作者と読者の座の共有意識が希薄に見える。
 長谷川櫂に茶々を入れたのも、険悪な(?)空気を察して幇間を呼んできたのも、共に座を盛り上げる、引いては座を自分たちがどのように共有し楽しむか、その意識無くしては成り立たない。歌を読むときの作者との場の共有感、歌を発表するとき読者との間に形成される筈の共同の場、それらを意識することが殆どなくなっているのではないだろうか。
 歌仙という経験から私は多くを学んだと思っているが、それは多く読者論に関わる問題でもあった。ここには一つのことしか述べなかったが、追い追いそれらについて、一つ一つ検証していこうと思っている。

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