百葉箱

百葉箱2019年7月号 / 吉川 宏志

2019年7月号

  ラーゲルの白き夜より戻り来し叔父は好みぬどくだみの花
                             大久保明

 シベリアに抑留された叔父が見た白夜と、どくだみの白い花。組み合わせが美しすぎるとも言えるが、そこに叔父を哀惜する思いも潜んでいるのだろう。
 
  なまよみは並吉(なみよ)みなるらし甲斐が峰の並び良ければ夕影の良し
                                  中山博史

 「なまよみの」は甲斐(山梨県)にかかる枕詞。語源未詳らしいが、山の並びが良いという説を知り、風景が古代につながっていくような感覚を味わったのだろう。
 
  夜食費を払えぬ生徒に大学への進学促す初任を諭す
                          澁谷義人

 若い教師が夢を与えることを言ったのを、咎めたのだ。作者も、自分の行為が正しかったのか、疑問を抱いているのだろうが、現実の厳しさも知っている。現代の貧困について考えさせられる歌。
 
  仰向けに飲み干す力無き母の缶コーヒーを土に流したり
                            朝井さとる

 老いて嚥下力が衰えていく様子を具体的に描き、情景が鮮明に見えてくる。土に流すという結句もよく、疲弊した様子や空虚感が伝わってくる。
 
  ビニールハウスに見えしは工場いや基地の 曇りがちなる那覇に降りたり
                                 松原あけみ

 沖縄の基地問題を歌うのは難しいが、見たものだけをさりげなく詠み、心の中の「曇り」も表現している。
 
  とき折りに鳥鳴く葦むら揺れながら葉うらを返す海老江の港
                              武田久雄

 海老江は、琵琶湖畔(湖北町)にある地名。この作者らしい丁寧な風景描写が、静かな光の美しさを生み出している。
 
  君に子をのこしてやれる年齢を通り過ぎつつ今日も湯豆腐
                             大堀茜

 背景には病気もあるらしく、痛切な一首である。結句が良く、ほのかな明るさが目に残る。
 
  地震の後三年経ちて母に会う墓穴に散る白い骨片
                         有木紀子

 熊本の大地震から三年経ち、墓をひらくと、骨壺が割れ、母の骨が散乱していたのだろう。淡々と事実のみを歌っているが、苦しかった三年間の記憶が迫ってくるような感覚がある歌である。
 
  ひし形の道路標示の真ん中にしゃがんでそこから見える星たち
                               拝田啓佑

 よく見る道路標識だが、このように歌われると、異世界への通路のように感じられる。一見平板な文体だが、奇妙な味がある。
 
  へび道の鎌首あたりにふと出れば亀の子束子を売る店のあり
                              石井暁子

 「へび道」と「亀の子束子」の組み合わせがおもしろく、大蛇に呑まれたような不思議な空間感覚が生じている。
 
  永遠のような顔した枕木を春夕焼けはあたたかく呑む
                           辻 大志

 春夕焼けに、優しいような怖いような表情がある。永遠などないんだ、と歌っているようにも思う。不思議な印象の歌。

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