青蟬通信

二見浦の西行 / 吉川 宏志

2019年7月号

 伊勢の二見浦(ふたみがうら)を前から見たかったのだが、今年の五月にやっと行くことができた。注連縄を張られた夫婦岩が有名なところである。
 二つの岩の間から、富士山が非常に小さく見えるそうなのだが、霞がかかっていて、まったく見えなかった。伊勢から富士山まで、直線距離で二〇〇キロ以上あるというが、見えることは昔から知られていたらしい。
 古代の人はよく気づいたものだと驚くが、よく考えると、富士山は当時は噴火したりしていたはず。二つの岩の間から、煙が立ち昇るのが見えたのかもしれない。あるいは夜になると赤い火が見えたのだろうか。
 二見浦に、西行が草庵を結んだのは、一一八〇年だったという。源頼朝が伊豆で挙兵した年で、西行は六三歳であった。
 『山家集』には、こんな歌が残されている。
  今ぞ知る二見の浦の蛤を貝合(かひあはせ)とて覆ふなりけり
 長い詞書(ことばがき)がついていて、西行は浜辺で少女たちがハマグリを採って集めているのを見たのだそうだ。身分の低い海人(あま)ではなく、それなりに高貴な家の少女たちだった。そんな少女が、貝の殺生をするなんて、情けないことだと西行は説教したらしい。
 すると少女たちは、都の人に頼まれて、貝合わせの貝を採っているのよ、と語ったのだった。
 貝合わせとは、いくつもの貝殻の中から、ぴったりと合う二つを見つける遊びである。貴族の女性たちのために、金箔を貼り、源氏物語などを描いた豪華な貝殻が用いられた。
 貝合わせの貝を作るには、生きているハマグリを殺して、二枚の貝殻を手に入れるしかない。砂浜に落ちている貝殻を拾っても、片割れなので、貝合わせには使えないのだ。
 西行は、都で貝合わせの遊びを見たことはあったのだろう。しかし、そのときは海辺で貝殻を拾って作っているのだろうと、勘違いしていたのではないか。
 ところが二見浦に来て初めて、仏教で禁じられている殺生をしていることに気づいたのである。西行の歌の「今ぞ知る」には、罪を知ったときの驚きが込められている。結句の「覆ふなりけり」がちょっと分かりにくいが、貝合わせのことを「貝覆い」とも言うそうで、それが関係しているのだろう。手で貝殻を覆う行動をあらわしているのかもしれない。
 このようなことは、現代でもあるのではないか。たとえば、時計のベルトなどを作るために、外国で大量の爬虫類が殺されていることを知ると、目がくらむような感覚に襲われる。西行が味わったのも、おそらくそれと近い感覚だったはずだ。いつも見ていたものの背後に、無数の生き物の死が存在していることを知ったときの慄(おのの)きである。
 そういうふうに読むと、西行の歌がとても身近に感じられてくる。
 この歌の近くには、次のような歌も置かれている。
  磯菜(いそな)摘まん今生(お)ひ初(そ)むる若布(わかふ)海苔(のり)海松布(みるめ)
   
神馬草(ぎばさ)鹿尾菜(ひじき)心太(こころぶと)
 海藻を摘もう。いま生え始めた若い布海苔(ふのり)、みるめ、ぎばさ(ホンダワラ)、ひじき、ところてん。
 海藻の名前をずらずらっと並べた一首なのである。このうち「ぎばさ」というのが聞き慣れないのだが、インターネットで調べると、現在でも「ぎばさ」という名称で、秋田県で食べられているという。すごく粘り気のある海藻であるらしい。
 じつに自由に歌われているし、海藻を採る楽しさがいきいきと伝わってくる。濡れた黒い緑が目に見えるようで、いかにも美味しそうだ。
 西行は、旅先で海人の姿を見て、殺生の罪を咎める歌もいくつか作ってきた(「下り立ちて浦田に拾ふ海人の子は螺(つみ)より罪を習ふなりけり」など。「螺(つみ)」は貝の名前)。
 しかし、二見浦で暮らすうちに、美しい海で魚介を採って食べる生活のおもしろさやたくましさに、しだいに心を惹かれるようになったのではないだろうか。仏教の戒律は大切だった。けれども、その理念で割り切ることはできない海辺の生活があることに、西行は新鮮な驚きを感じていたのだと思う。

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