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natsume

近所の住宅の庭から大きくはみだした枝に、たわわに実がついている。足をとめて何だろう?と見上げる。
たぶん、ナツメ。自信はないが、ナツメだろう……と、図鑑で確認するのに、最近はスマホで写真を撮っておく。つくづく便利な世の中になったものだ。

つくづくと我も見上げぬ色づける棗(なつめ)の実をば子供ら仰ぐ/宮柊二『純黄』

ほのかに色づいてきたぐらいだが、このくらいでも食べられるのか。
私有地のものなので、採って食べるわけにもいかない。庭に向けて写真を撮るのも、本来ははばかられることだが……しかし、どうやら空き家のようなのだ。

閑静な住宅街。
駅からちょっと距離はあるが、大阪や京都への通勤が辛くなるような場所ではないが、あちこちに空き家がある。

庭木がのびのびと繁っているが、ときどき庭の管理をしに来ているのかどうか。

棗の実などは、喜んで鳥が持ってゆくのだろうけれど。

   *

すこし加筆。

万葉集に「棗」を詠んだ歌は2首あって、そのひとつ。

梨、棗、黍に粟つぎ、延ふ葛の、後も逢はむと、葵花咲く/作者不詳・巻十六

「黍」は「きみ」にかけている。「葵」で「逢ふ」。実りの季節、花の季節が次々つづくように、これからもまた会いましょうというような。
これはたくさん物の名を詠み込むというゲームのような場面の作品であるらしいのだが、その冒頭に「梨、棗」というふうに出て来る。

このときの「棗」は、今とそれほど変わらないだろうけれど、「梨」を、「二十世紀梨」はもちろんのこと「幸水」や「長十郎」のような栽培種を思い浮かべてはいけないのだろう。おそらく、棗とそれほど違わない、棗よりはいくらか大きかっただろうけれど並べても違和感のないぐらいの小粒の実だったのだ。そういう意味でも「なし・なつめ」は仲良く呼び出されてきたのだろう。

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