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四月に入ってから、雑務(と数学)に忙殺されているのだが、その合間を縫うようにして田原『谷川俊太郎論』を読んでいる。
この田原(でんげん)氏は中国生まれ、翻訳詩を数多く手がける詩人。
なのでこの論には谷川俊太郎との比較のためしばしば中国詩(の翻訳)が登場する。これがなんとも日本の詩とは違っていて面白い。
確かに、わたしは荒涼とした丘の上で
片側半分の木を見たことがある
…(略)
それは二月の落雷で
木の梢から根もとまで真っ二つ
きれいに片側半分が残った
…(略)
みなは言う
雷がそれを引き裂こうとまたやって来るだろう
あんなにまっすぐ、あんなに高く立っているからと
雷は遠い空のはてからじっとそれを監視している (牛漢「片側半分の木」田原訳)
ああ、なんともはや中国だなあ、と思う。最後の「監視している」が日本では出ない言葉であろう。木=詩人、雷=政府、と代入してみたくなるのである。

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