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「塔」10月号の編集後記に永田さんがドイツ出張の話を書いてます。ヘッセの『車輪の下』の舞台になったマウルブロン修道院へ行った話など。
今日届いた「短歌往来」11月号を開いたら、巻頭に永田さんの21首が載っていて、その中に「ハイデルベルグ出張六首」と詞書きの付いた歌がありました。
隠れて本を読む物陰はいくつもありて若きヘッセを暗く閉ざせり
繰りかへしデミアンを言ひゐしはきみなりきこの修道院にわれひとり来て

2首目の「きみ」は、もちろん河野さん。『デミアン』のことを河野さんは何度か文章に書いていたと思いますが、昨年出たエッセイ集『わたしはここよ』から引いておきます。
運命は自分で拓いて行くものだ。このことばはいつからわたしに住みついたのか。十七歳のとき、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読んだ。これまでの人生で『デミアン』ほど繰り返し読んだ本はない。背表紙がすりきれて外れてしまい、ページがバラバラになってしまったのをセロテープや糊で造本しなおしたのをいつも持ち歩いていた。冒頭の部分など意味も分からないままに暗記していた。
岩波文庫の実吉捷郎(さねよしはやお)訳に愛着があったようです。

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  • さとう より:

     外国文学にも流行があるな、と思いました。私たち(〜裕子さんの頃)にはドイツ文学、ロシア文学、フランス文学が良く読まれていたとおもいます。私の記憶では高橋健二訳で読んだと思います。同時に露西亜料理も盛んでしたよ。
     私が学校図書館に勤めたときには(昭和60年代)には英米文学がよく読まれていてロシア、フランス文学は貸し出した覚えがないくらいです。
    私は「デミアン」「知と愛」がすき。

  • 松村正直 より:

    ヘッセは高橋健二訳が有名ですね。
    僕が学生の頃も文学部では圧倒的に英米文学が人気でした。ドイツ文学は長期低迷傾向にあって、志望者は毎年1ケタ。0名の年もありました。それでも僕の同学年は9名で、ドイツ統一の影響(?)で久しぶりに多いと評判になりました。今はどうなんでしょう。

  • さとうなみこ より:

     そういう世界情勢に大きく左右されるのですね。ソビエトがロシアになったときにはどうだったのでしょうね。アメリカやソビエトのような大国であればこんなに惨めな国民ではなかったろう、という思いがあったのかも。大きくても小さくても敗戦国は惨めなのですが。
     私の高校生の頃は日本も復興を果たしつつあったのでその名残としてロシア文学なども青春の通り道みたいにして読まれたのかも。
     でも「罪と罰」「白痴」などはとても重くてしんどかったです。「白痴」が恋愛小説とは思えなかったです。
    ロシア料理の店「ロゴスキー」もずいぶん流行ったのですけれどね。今は懐かしいからピロシキを買うときだけ行くくらいでしょうか。紅茶にジャムを入れるなんていうのもその頃は珍しかったし。
     ああどんどん回想談になっていきます。

  • 松村正直 より:

    京都には加藤登紀子さんのお父さんが開業したロシア料理店「キエフ」があります。1971年の開業で、昨年40周年を迎えたとか。

  • さとうなみこ より:

     先日来「デミアン」と「知と愛」を読み返していました。ほぼ50年ぶりでした。
    「知と愛」で気になるのは「菩提樹」が「ボダイ樹」と書かれていること。
    樹まで入れて名前だと思っていたので「ボダイ樹」ではとても嫌。それに気のつかない読者だったことも嫌。
    そういう細かい違和感は幾つかありましたがなにか血が騒ぐような、意欲がわくような一瞬がありました。年齢は致し方ないですが、読書によって青春を呼び戻せるのだと思ったことでした。つかの間ですけれど。

  • 松村正直 より:

    同じ言葉でも、訳者によって表記が違いますね。高橋健二訳では「ボダイ樹」になっていると思います。『車輪の下』でもそうでした。
    普通に(?)「菩提樹」と訳している方も、もちろんいます。

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