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品種までこだわるのか、「桜/さくら/サクラ」なのか、あるいはまた「花/はな」とするのかは、個々人の選択であり、文体の一つの要素でもある。
品種名を出さなくとも、その実像を見つめて写実的に、それこそ実相観入の境地に入っているものもあるかもしれない……が、だいたいにおいて、品種まで出て来るものは現実世界に足場を置き、「花」とするものは、人の心の内側のほうに重心がかかっているのが普通だろうか。

そして、歌の多寡が、現実世界にそのものが多いか少ないかということとは直結しない……歌を拾いながら、そんなことも思うのだ。

岡部文夫歌集『風』にこういう作品がある。歌集刊行は1948年で土屋文明の『自流泉』より早いが、作品は昭和23年(1948)年頃のもの。

不意(たけそか)のことなりしかど染井吉野の開花樹齢のことおもひけり

「不意(たけそか)」は万葉集語彙。前後の脈絡はあまりなく、この作品自体が「不意」のもの。「開花樹齢」というのは種から発芽したりさし芽して根がついてからの樹齢で、花をつけるようになる時期のことか(あるいはまた花をつけるようになってから衰えるまでのことかもしれないが)。
下句の歌意は「どのくらいの期間で花をつけるのだろう?」または「(まだ若木なのに)もう花をつけてる!樹齢何年だろう?」というところだろう。

戦後になってソメイヨシノがさかんに植栽されるようになったのは、植えてから花をつけるまでの期間が短いということもあったらしい。

焼け跡の街を、いかにして復興するか……という人々の思いがこめられているのだと、改めて思うのだが、これがなぜか「しきしまの」の山桜よりもはるかに「ぱっと咲いてぱっと散る」ものであり、すぐ花が咲くという促成的なものであったこともまた、深く心にとめておきたいと思う。
だからどうのという、簡単な結論は無いのだが。

「ソメイヨシノ」が、ごく普通に作品の中にあらわれるのは、概ね1980年代以降のこと。気象庁による開花予想の発表は1960年代からだが、天気予報を伝える「お天気おじさん」(のちには気象予報士など)がネタとして「標本木はソメイヨシノ」ということを毎年のように言うようになったのは、その頃からでありました。

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