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高安さんの第9歌集『朝から朝』を読んでいたら、あとがきにこんな一節があるのに気が付いた。
私はこの歌集の中で、たとえば欅をうたったものや紅葉をうたったものに、従来の私をぬけ出た詠風を得ているようにみずからは思っている。それがどういうことであるかは、しかしみずから説明しない方がよいだろう。作者の言葉はよく作品解明の鍵として安易に使用され、かえって真の解明をさまたげる結果になることを、私は過去の経験によって思い知らされているからである。「あとがき」を読み、作者の言葉を鵜呑みにして無責任な批評紹介をされるほど、著者にとっていやな思いをすることはない。
なるほど、そうだよなぁと思う。歌集紹介では「あとがき」を引用して文章を書くことが多いが、それは「作者の言葉」を無条件に正解としてしまう危うさがある。歌の読みにおいて、作者の自歌自注を必ずしも正解としなくてもいいように、本当はあくまで「自分の言葉」で書いていくことが必要なのだろう。
とは言え、「高安国世の手紙」を連載している身としては、こんなふうに書かれると、高安さんの歌集の「あとがき」を引用しづらくなっちゃうんだよなぁ・・・。困った。

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  • まなか より:

    要するに「安易に」参照すると、そこで判断停止になってしまうというのですね。
    そのことを意識したうえで、参照できるものは参照しないとしょうがないということもあるでしょう。もちろん、作品そのものをしっかり読まないといけないわけですけれど。

  • 松村正直 より:

    そうですね。「安易に」というところが問題なのでしょうね。高安さんは歌集のあとがきで自分の歌について詳しく述べることが多いので、批評する側がつい引用したくなるのも、よくわかります。
    『朝から朝』のあとがきでも、上の部分に続いて「だから今度は何も歌にふれたことは書くまいと思っていたのに、また要らざる一文を綴ってしまった」とあって、何だか微笑ましい(?)です。

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